脱北帰国者が語る 北の喜怒哀楽―旧ソ連に密入国(3)

役人にわいろ渡して戸籍を偽装しシベリアへ
日付: 2017年05月31日 00時00分

木下 公勝

 ソ連に行って麝香を手に入れ、3年で10万円を倍にして返すという金英範の話を聞いても、私は半信半疑だった。
「一つだけ質問するが、万一その品物が手に入ったとしても、国内で売り飛ばすことは難しいばかりか、危険を伴う。冒険するような危ない話です」と私が言うと、彼は「いやそうではなく、君がシベリアに来て、帰り道に中国のチチハルやハルビン、長春、吉林のような大都市の漢方薬局でいくらでも売れるからその心配はしなくていい。品物には自信がある。自分が帰国する時は、税関で手荷物検査が厳しい。だから3年後に直接シベリアまで来てくれないか。出入国の手助けは私に任せてくれ。サハリンには、自分の腹違いの弟もいる。彼がいっさいの手配をするから心配しないでほしい」と頼み込んできた。
私は腹を決めた。
「わかった。10万円を渡しますよ。詐欺に遭ったつもりで金トンム(同志)の苦しい立場を助けます。麝香が必ず私の手に入るかどうか信じられませんが、その後のことは金トンムに任せます」
私は10万円の使い道を聞いた。金英範は「5万円は元山市安全部住民登録課の役人の責任者に渡して、残りの5万円はK市安全部住民戸籍登録課の役人に握らせるつもりだ。昔住んでいた所の役所と、今いる所の役所の両方に渡せば万事希望どおりになるに決まっているさ」と答えた。
私は彼の言いたいことを十分理解できた。出身地をサハリンから元山に書き替えて戸籍を偽装し、在ソ林業代表部の人事課に申請書を提出すれば、シベリアにある林業代表部から任命が下される。彼は作業所の支配人や党秘書(書記)直属の通訳になる計画だった。シベリア現地の幹部は、ソ連側の代表部幹部と商談や面談する時に、ロシア語に精通した通訳官が必要であった。
さらに言えば、作業場の幹部や代表部の幹部は、外国語大学を卒業したばかりの若い通訳官よりも、融通のきく、空気を読むのがうまい人材を自分の手下に置きたいと思っている。自分たちのヘソクリ稼ぎ、つまり不正な蓄財や不正行為を黙って助けてくれる通訳官が必要なのだ。
金英範のような世渡りの上手な人材が必要とされることは、彼自身もよく知っていた。その後、戸籍偽造は彼の希望どおりに成功した。
ソ連での作業期間は満3年と決められていた。長期間いると必ず不正行為が生じるからである。しかし、賄賂工作によって、さらに3年延長されるケースもあった。
金英範は、清津の在ソ林業部伐採工の隊列に加わり、ソ連に行った。その約10カ月後、祖国にいる奥さんに一通の手紙を送った。彼の奥さんは涙ぐんで喜びながら「手紙が来ましたよ。健康で異常なく、ハバロフスク林業代表部翻訳(書類翻訳)兼代表部通訳員になって務めているそうです。これで安心しました」と、私の前に手紙を差し出した。たった一枚の手紙には、自身の安全を伝える内容が簡潔に書かれていた。
ソ連側の住所はロシア語で書いてあった。さらに、サハリンに住んでいる弟の住所、氏名、電話番号まで書いてあった。
北朝鮮では以前から、海外からの手紙は検閲の対象となっていたので、複雑な内容ではなく、簡単な内容を記したのだろう。それから約2年間は一通の手紙もなかった。
そろそろ帰国かという3年目のある日、ある人から一通の電報が奥さん宛てに届いた。そこには「英範に頼まれた手荷物を持って来た。3日以内に清津林業代表部まで来てほしい」と書いてあった。金英範の少し前に満期を迎えて帰国した元作業員からの電報だった。電報を受け取った翌日、奥さんは清津で手荷物を受け取って帰ってきた。青いソ連製の、ごく普通の旅行鞄だった。ただ、荷物を預かった男は奇妙な一言を奥さんに伝えていた。
「中にある大きなフレーブ(食パン)の味を良く噛んで味わってください」
(つづく)


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