洪熒 本紙論説主幹
中共軍は火力の劣勢を兵力で補う方式で戦った。中共軍は、米軍には6倍、韓国軍には3倍の兵力を確保してから戦闘に突入するよう指示された。中共軍は、大兵力での正面突破と、浸透や迂回のゲリラ戦法を併用し、5日間から2週間の集中攻撃の後、姿を消した。弾薬や食糧の補給のためだった。
毛沢東は国共内戦で200万人の国民党軍を獲得。米国が蒋介石に支援した武器や装備を、そのまま持って韓半島に侵入してきた。毛沢東は、この国民党出身兵を人海戦術に使った。国連軍の捕虜になった中共軍の90%が蒋介石軍出身だった。
中共軍の介入で事態が深刻になったため、12月21日、国民防衛軍設置法が公布され、50万の将兵確保を目標に、40歳以下の男性が第2国民兵として招集された。李承晩は12月24日、ソウル市民に避難を指示した。国連軍司令部は、中共軍が19個師団をソウル北方に集めて攻勢準備中と発表した。
国連総会は12月14日、休戦決議案を採択したが、勝利を確信した毛沢東は協商を拒否した。国連軍は全戦線で38度線以南16キロまで撤退した。共産軍のMIG戦闘機が米空軍に挑戦し、中共軍6個軍が大晦日の夜からソウルを目指し、38度線を突破してきた。
政府と国軍首脳部は1月3日、釜山に移転。ソウル市民30万人は、凍った漢江を歩いて渡った。国軍と国連軍は翌4日、ソウルから撤退し、李承晩らも午前8時、景武台を出て釜山に移動した。政府は「ソウル撤退に伴う避難民疎開救護対策」を発表し、140万人の避難民が政府と公共団体の保護を受けた。政府は全国に戒厳令を宣言した。
国軍3個軍団と米軍2個軍団は、平澤‐堤川‐三陟の線で中共軍の3次攻勢(12月31日から1月10日)を阻止した。原州地区では、国連軍の反撃で、後退は北緯37度線で止まった。
マッカーサーは1月10日、国連軍の兵力が韓国と日本の防衛に不十分であると指摘し、韓国から撤退するか残留するか、ワシントンの合同参謀本部に判断を迫った。合同参謀本部は、韓国を最大限支援することにした。
トルーマンは1月14日、マッカーサーに親書を送り、韓国を放棄しないと伝えた。マッカーサーは感動して、直ちに「われわれは最善を尽くします」と回答し、参謀たちに韓国から撤退しないと宣言した。マッカーサーは1月20日、戦線を視察し、誰もわれわれを海に追い込めないと言い切った。
国連総会第1委員会は1月13日、現位置での休戦案を中共側に提示した。米国としては屈辱だったが、高慢になった中共側は17日、再び国連の停戦提案を拒否した。米国は、中共を侵略者と規定する決議案を国連に提出した。国連総会は2月1日、中共を侵略者と規定する決議案を可決した。
国連で中共との屈辱的な休戦協商案が提案されていたとき、戦場は1月中旬から様相を変えた。中共軍は平澤までの南進には成功したものの、参戦以来の戦闘損失と補給の困難、そして新任8軍司令官のリッジウェイ中将の緻密で強力な反撃で、北緯37度線で限界を露呈した。
リッジウェイは、中共軍の補給線が長く、大規模攻勢でも数日以上持続できないという戦略的弱点を把握し、1月25日から国連軍を攻勢に転換し、戦線を漢江近くまで押し返した。国連軍は1月26日、ソウルの南の水原を占領し、東部戦線でも北韓軍2軍団を壊滅させ、1月30日には江稜を奪還した。
(つづく)