洪熒 本紙論説主幹
中国側が1990年代以降に明らかにした、韓国戦に参戦した中共軍の規模は、1953年の停戦協定締結まで、25の歩兵軍団(79個師団)をはじめ、40以上の師団(空軍師団12、砲兵師団16、鉄道および工兵師団10、戦車連隊10、一部の公安部隊)を合わせて200万から300万人だった。兵力が最も多く投入された1953年4月から7月までは、130万人以上の兵力が投入された。
最新の武器と重装備もなく、小銃と手榴弾だけだった中共軍は、戦闘で35万6000人、その他の非戦闘損失を合わせて60万~90万人が死亡したと推定される。この貧弱な武装の中共軍に国連軍が平澤‐原州線まで押されたのは、マッカーサーの戦術戦略上のミスのためだった。
マッカーサーは仁川上陸後、理解しがたい命令を下した。ソウルを奪還した第10軍団に、仁川から輸送船で2000キロ移動して元山に上陸するよう命じ、洛東江戦線から北上してきた8軍には、38度線を越えて北進を命じた。
この命令で戦場の秩序は混乱した。仁川に上陸した米海兵1師団は、船で韓半島をぐるりと回って元山へ向かい、米7師団はソウルから陸路で釜山まで行き、船便で元山へ向かった。このため、仁川港とソウル‐釜山間の陸上補給路は、麻痺状態となった。米海兵第1師団の元山上陸(10月26日)と米7師団の利原上陸(11月4日)では、1個軍団が3週間も海上で時間を浪費した。米10軍団の上陸が遅れたのは、元山沖の機雷除去のためだった。
マッカーサーの決定に多くの指揮官が疑問を示した。地上軍はウォーカー将軍の第8軍と10軍団に分離され、10軍団を迂回させたことで敗走する北韓軍を殲滅する機会を逃した。マッカーサーの致命的ミスのため、米軍は白頭山‐蓋馬高原‐妙香山を結ぶ険しい狼林山脈の東西に両分された。
国連軍は相互支援や偵察・接触を維持できず、友軍と80キロもの間隔をあけて進撃した。
中国軍はこの弱点を衝いた。敵主力の隙間を利用してすべての道路を封鎖し、国連軍が包囲網に入ってくるのを待った。マッカーサーは、中共軍が韓国に介入する余裕がないと油断した。マッカーサーは、限られた兵力で終戦を急いだ。マッカーサーの無謀な進撃命令については、丁一権将軍が冬季作戦準備の不備などを挙げ、清川江‐咸興線で進撃を一旦停止するよう言ったが、マッカーサーは10月24日、総進撃命令を下した。
国連軍は翌日、中共軍の攻撃に直面した。マッカーサーは11月6日、中共軍介入への対策として鴨緑江上の3つの鉄橋(新義州、朔州、満浦鎮)を爆撃するよう命令したが、ワシントンの米統合参謀本部がこの作戦を中止させた。マッカーサーが反発すると、鴨緑江鉄橋の南半分だけの爆撃を許可し、11月8日に爆撃した。
中共軍は米軍が韓満国境8キロ以内は爆撃しない方針であることを知り、安心して鴨緑江を渡った。待ち伏せしていた中共軍に米8軍が包囲されたことを知ったマッカーサーは、同軍の後退と10軍団の興南撤収を承認した。国連軍は、北の戦線からの総退却を強いられた。国連軍はわずか10日で190キロを後退した。
マッカーサーは、大規模な追加派兵、蒋介石軍の投入、中国の海上封鎖、中国本土爆撃など拡戦権限を要求したが、ワシントンは承認しなかった。トルーマンは、国家非常事態を宣言し、国防予算を500億ドルに編成。経済力で共産主義と対抗した。(つづく)