脱北帰国者が語る 北の喜怒哀楽―政治犯収容所の解体(8)

水に潜って石を拾い、金父子の釣り堀作り
日付: 2017年04月26日 19時40分

 政治犯収容所の解体を終えた私は、以前の道路工事に戻った。道路工事だけでなく、釣り堀の工事に参加したこともある。上流から流れてくる冷たくてきれいな水を引き込み、金日成や金正日専用の釣り堀を作るのだ。
釣り堀の工事現場では若い社労青(社会主義労働青年同盟)メンバーが先頭となり、職業同盟員、党員らと合同で作業を行っていた。社労青員は腰まで水につかりながら川底の石を取り出し、中年部隊は川岸の釣りスペースを拡張するため、スコップで石を取り除き、300メートルほどの土塁を作った。
最終的に水深を1・5メートルにせよとの指示だったので、川の中にいた青年たちの苦闘ぶりは大変なものだった。男性はパンツ1枚、女性は運動服や作業着を着たまま水に入り、最後の方は水に潜って川底の石を拾い上げていた。
さすがに1・5メートルまで掘り下げるのは難しかったため、作業2日目は上流の水を一時的に迂回させるための工事に着手した。3日目に迂回路は完成し、釣り堀前の川の水深は30センチほどまで下がった。再び川底から砂利をかき出して土塁の上に運び、大きな石にはロープを括りつけて岸に寄せた。
どうしても人力でどかせない岩は、爆薬を使って砕いた。最終的に釣り堀ができあがったのは15日後のことだった。夏場の6月とはいえ、渓谷の水は湖の水などとは違い、非常に冷たい。男女とも、水の中に入るときは悲鳴をあげていた。5分も入れば体の芯までしびれるほどだ。
それでも男たちは「あの子は冷え性になって、お嫁にいっても子どもは産めないだろう」などと女性をからかっていた。その光景は今も思い浮かぶ。
10日に1日は休養日があった。そんな日は裏山に登り、山菜を採ってきて夕食のおかずに加えるのである。周囲の山には葛が自生しており、地面を慎重に掘って大きな葛を掘り出したこともあった。その場にいた全員が歓声を上げて喜んだ。葛は生のままおろして食べたり、乾燥して砕いてモチにしたり、チジミにして食べた。
8月下旬から9月になると松茸やシイタケが採れた。話によると、その山の周辺は昔から一般人が足を踏み入れることが禁止されており、収容されていた政治犯も松茸狩りなどはできなかった。荒らされていないため、キノコ類が豊富に採れるとのことだった。
9月の初旬、私たちの中隊にある命令が下った。鏡城駅(咸鏡北道)から約8キロ西の平地の向かいに大きな山があり、そこで行われているトンネル工事の支援を10日間行えというものだった。
平壌と羅先を結ぶ平羅線から支線を引き、トンネルを通して鉄道を敷くというのが工事の全体像だった。しかし、この工事もまた、詳しい内容は事前に伝えられなかった。
トンネル工事と鉄道の敷設工事があったが、私たちが任されたのは鉄道工事だった。私たちの中隊は、草の上にビニールシートを敷き、毛布1枚で野宿しながら作業した。
幸いなことに、私たちの中隊には鉄道修理の部門で働いていた人がいた。5人の熟練工を中心に工事を始め、作業は順調に進んだ。ほかの部隊は工程どおりに作業を行わず、工期に間に合わせるためにずさんな仕事ぶりだったので、ひどく批判されていた。彼らは何度も工事をやり直させられた。
ほかの鉄道工事と違って、その工事は特別厳しくチェックされた。不思議だったが、後でわかったことだが、金日成と金正日を迎え入れるための作業だったからだ。工事の中間に行われた総括では、道の党責任副秘書が「最大の技術精密度と忠誠心をもってやれ」と作業員にはっぱをかけていた。
工事には、駅の近くや山の向こうにある温泉地帯から多くの人が動員されていた。私たちを支援するための人員である。特に多かったのは女性同盟の人たち(主に主婦)だった。
(つづく)


閉じる