4月に入って平壌側が内外の関心を集めた。まず15日には、金日成誕生105周年祝賀行事があった。金正恩は記念軍事パレードを通じて核攻撃力を誇示した。ところが、米国との戦争も辞さないと叫びながら、黎明通り(平壌の高層住宅街)の完成を急いだのは、実に奇異なことだ。金正恩の強気ははったりだ。
最高人民会議が4月11日に開催された。もちろん、この第13期5次会議に、朝総連の代議員(国会議員に相当)5人は参加できなかった。日本政府が再入国を許可しないためだ。
朝総連に割り当てられた最高人民会議代議員5人も詐欺だ。1967年、朝総連に代議員が7人に割り当てられたのは、ある程度合理的な措置だった。代議員1人が人口4万前後を代表するという基準から見れば、当時の朝鮮籍の数で7人は妥当だったかもしれない。だが、朝総連は今、消滅段階だ。
議長の許宗萬は金日成生誕105周年を迎え、「主席の愛国遺産である総連と在日朝鮮人運動の新たな全盛期を力強く開いていく」と強調(4月15日、朝鮮文化会館)した。が、日本の法務省の統計によると、2016年12月末の時点で、日本国内の朝鮮籍は3万2461人で、15年末の3万3939人から1478人も減った(4・35%減少)。15年は5・1%の減少だった。
消えゆく金氏王朝と”朝鮮労働党日本地域党”の最期を隠すための手段として、平壌側と朝総連は洗脳と欺瞞を用いる。
朝鮮新報4月14日付には、朝鮮新報社と朝鮮通信社出身の宣伝活動家S氏の訃報が掲載された。彼は金日成と金正日から尊名時計をはじめ、金日成賞、共和国人民記者称号、祖国統一賞、国旗勲章1級、努力勲章などを受け、訪北したときは金日成と金正日が接見したという。
一体、彼の功績は何だったのか。S氏が平壌から特別扱いを受けたのは、韓統連(韓民統)工作の産みの親だったためだ。
許宗萬やS氏のような、朝総連幹部が平壌に忠誠を尽くす理由は、社会主義への信念があるからではない。当初はどうだったか分からないが、結局は特権のためだ。「朝総連貴族」が平壌でどういう待遇を受けるのかは、朝鮮大学校の教員で、主体思想理論家として有名な社会科学者の回顧録に詳しく書いてある。
回顧録では、北送者の悲劇とは対照的な「朝総連組織貴族」の世界を垣間見ることができる。彼らは日本では到底味わえない特権と贅沢を楽しめる。金日成70歳の誕生日の行事に招待された主体思想研究家の経験だ。
「平壌に着くと、金正日総書記の招待で、彼が宴会専用に使っているモンラン閣へ行った。盛大な歓迎の宴が開かれた。専属の歌舞団の公演を鑑賞しながら、ひとときを楽しく過ごした。その後の祝賀行事では、マスゲームをはじめとするさまざまなイヴェントに参加した」(朴庸坤著『ある在日朝鮮社会科学者の散策』102ページ)
北韓住民の15%が餓死し始めた1995年、彼は平壌でどのような生活をしたか。やはり回顧録を見てみよう。
「1995年三月から一〇月まで、私は平壌の郊外、龍岳山麓にある主体科学院に滞在した。主体科学院は一万坪余の敷地に二棟の豪奢なホテル級の建物があり、主体思想を学ぶ外国からの賓客の宿泊に供与していた。この主体科学院は、黄長燁が率いる研究グループの拠点であった。私が訪朝するとき、いつも主体科学院の賓客用宿泊棟に滞在した。私には案内人二名、運転手一名、衛兵三名、料理人二名、その他に食事担当メイド、部屋掃除メイド、茶菓担当メイド、洗濯メイド、さらに指圧師までついた。まさに王侯貴族の待遇だった。食事も申し分なく、自宅ではとても味わえない山海珍味が並べられた。毎日、午後三時に指圧師が来て、体をほぐしてくれた。九月下旬のある日、指圧師のマッサージの気持ちよさに、つい眠り込んでしまった。かなりのあいだ眠り込んだのか、寒気を感じて目覚めた。薄着のまま寝込んだせいだった。医者が来て、風邪だと診断した。科学院の外側では、百年来の集中豪雨による大洪水で、都市も農村も甚大な被害が出て麻痺状態になり、住民に伝染病が蔓延していた。しかし、私には医者と看護師がつきっきりで治療し、貴重なストレスマイシン、散薬、注射、点滴を施した。(中略)鄭重な看護が効を奏し、一〇月に入って、やっと病床から離れた」。(同117~118ページ) (つづく)