脱北帰国者が語る 北の喜怒哀楽―政治犯収容所の解体(7)

土の下から人骨 保衛部指導員の説明は…
日付: 2017年04月19日 19時40分

 話を管理所の解体に戻す。私たちは約2カ月間、解体に動員された。一つの建物を壊しても、またすぐに別の場所に移された。道内の各市・郡の党員約700人が総動員され「突撃戦」を繰り広げたが、それでも2カ月かかったのだ。どれだけ広大なのか想像してもらいたい。
解体作業も大詰めを迎えたある日、一番奥にある「A級政治犯」区域に入った。区域の手前にはB区域と隔てるための遮断所(検問所)があった。周囲には幅4メートル・深さ3メートルほどの堀があり、両側に鉄条網が設置されていた。収容者がいた当時は鉄条網に電気が流れていたというが、私たちが行った時には歩哨兵が3人いただけで、「無断出入り禁止」と書かれた看板もあった。
党員突撃隊による3日間の「解体戦闘」が再び始まった。私の中隊と3つの小隊は、A区域の豚舎と政治犯の住居を解体せよとの命令を下された。豚舎の数はB区域と同じく5棟だった。1メートルの深さに掘られたスペースに、ブタを2匹ずつ飼育していたという。厳冬期であったため、小屋の4分の1は保温のため土が厚くかぶされていた。まずは土や屋根をはがし、次は居住スペースを解体した。
居住空間は豚小屋とほとんど変わらない大きさだった。地面は1メートルほど掘り下げられており、奥行きは2・5メートル、幅は1・2メートル。床から天井までの高さは約1・8メートルだった。屋根は粗末な垂木の上に樹木や枯葉を乗せ、その上にトウモロコシや麦の茎をかぶせて結わいてあるだけだった。
B区域の工場の解体に比べればはるかに容易な作業になった。広場に集めた廃材は、ものの30分で焼却できた。
翌日は豚小屋と住居を埋める作業になった。豚小屋も住居も長さは約60メートル、深さは1メートルあった。穴のそばの土を使って埋めるのならいいが、50メートルほど離れた山肌を削って担架に土を乗せて運ぶということになった。
一日の作業を終えるころには肩、腕、手のひらから血が滲み、痛みで泣きそうになるほどだった。ほかの隊員も同じようで、その日は誰も普段のようなおしゃべりはせず、気絶したように寝入ってしまった。
3日目の仕事は、埋めた場所を目立たなくするための作業で、整地と植樹が主になった。植樹は1人300本。1・5メートル間隔で植え、水までやるようにと命じられた。植えたのは紙の原料になるポプラだった。もう一つはアカシヤの苗木だ。生命力が強いといわれたので、水はやらなかった。アカシヤは養蜂のために植えられた。生産されたはちみつが全部保衛部員の口に入ると思うと、ばからしくてたまらなかった。
土を掘り起こすためにツルハシを振るっていた時のことだ。地面から30センチほど下の土中に人骨が埋まっていた。どの骨がどの部分かはわからなかったが、あばら骨と大腿骨、そして頭蓋骨だけははっきりとわかった。
隣の分隊も、あちこちで人骨が出てきたと騒いでいた。何らかの「違法行為」によって処罰されたに違いないとすぐに察した。その場で殺されたのか、別の場所で殺された後にその場に埋められたのかはわからない。ただ、白い骨はずいぶん前に埋められたもので、黄色がかったものは年数がたっていないものではないかと、みなでこそこそ話し合っていた。
小隊長が勇気を出して、現場にいた保衛部の指導員に「指導員同志、山の中で土を掘り返していたら人間の骨が何体か出てきました」と報告する形で尋ねた。保衛部の指導員は「悪い奴らだから処分を受けたんだ。気にするな。かえっていい肥料になって苗木がすくすくと育つじゃないか」と平然と答えた。
私は胸の中で、何と冷淡で非人間的なやつなのかと思った。同じ北朝鮮に住む者とはいえ、一般の職場で働いている人間と権力機関に所属している人間とでは思考方式に大きな隔たりがあるのだと気づいた。機関で教育・洗脳された人とは、当たり前の話をしても通じないと思う。(つづく)


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