朝総連衰亡史(38) ある在日朝鮮社会科学者の生き方への試み(2)

日付: 2017年04月19日 19時22分

 朝鮮大学校の性格と役割、そしてその処分に対して在日同胞社会はもちろん、日本社会でも批判的な議論が行われている。戦後、日本社会の中で革新系を中心に厚く保護されてきた朝総連の民族教育というのが、はたして正常なものだったのかという点に対して政治社会的な次元で批判が高まっている。
朝総連の根本的・体質的な問題点は、その異様な閉鎖性からくる。そしてその異様さの根源は、主体思想、つまり金日成主義である。
日本でこの金日成主義を普及する拠点は、言うまでもなく朝鮮大学校だ。この朝鮮大学校で「主体思想」を研究し、教え、挫折した老教授の回顧を前回に続いて紹介する。

(人間中心の世界観、博愛の世界観を完成させようとすることは)それは厳しく、険しい道程だった。孤独な思索の連続だった。
主体科学院の仲間たちとの主体思想研究は、類例がない苛酷な状況のなかで進められた。党の唯一思想体系確立の一〇大原則の下、言語に絶する厳格な思想統制と監視にさらされながら、人間の自主性の開花をめざす普遍的思想としての主体思想と、その世界観の完成をめざした。最大の問題は、権力との距離のとりかただった。着かず離れずの間合いをどうとるか、そこに神経をすり減らした。黄長燁は言った。この体制下では、ときには拍手も万歳もする術を知らないと生き残れない、と。学友は言った。政権に阿諛しても犬死だけは避けよう、と。私も権力にすりより、ゴマをすることもしてきた。ゴマすりは出世するという格言どおり、私にあらゆる学位、学職、勲章が授与された。私は好待遇に慣れ、民族の目線で権力を見る姿勢を忘れかけていた。厳しく自己点検せざるをえない。
真理の探究に突き進めば、いつか権力と衝突する。それは社会科学という学問がもつ宿命でもある。マルクスもドイツ追放の憂き目にあい、ロンドンで『資本論』を完成させた。わが師の林要も、天皇制の下で大学教師を辞し、田舎に蟄居し、志操を貫いた。主体哲学研究の盟友、黄長燁も北朝鮮で志をえず、心ならずも韓国に亡命した。私は彼らと比肩するほどの大物ではないが、北朝鮮は私を懐柔できないで忌避した。これは在日朝鮮社会学者として不名誉ではなく、逆説的には名誉であったと考えることにしている。
朝鮮総連からも村八分にされたが、私の主体思想研究の情熱は冷めない。そして長年の研究生活の成果の集大成として『博愛の世界観』を書き、世に問うた。しかし自然科学とは異なり、社会科学はその真理性を問う実験ができない。その主義主張はつねに仮説であり、その真理性はつねに歴史の検証を受ける。
歴史の検証の尺度は、社会正義と博愛の原則、自由・平等・博愛の理念をどう貫徹させたかである。世界宗教の創始者、仏陀、イエス、ムハマドの思想にそれを見、フランス革命の理念にそれを見る。しかし若き日に憧れたロシア革命の理念にそれは見えない。
社会実践は真理の尺度である。民衆はつねに正義の審判者である。歴史は栄枯盛衰の鏡である。現代朝鮮のふたつの現実も歴史の審判を免れ得ない。檀君朝鮮を止揚して金日成朝鮮の開壁を告げた北朝鮮を、後世の思想家はどう評するのだろう。人民民主主義を標榜する国家が白頭血統の王朝国家に変貌した北朝鮮を、後世の歴史家はどう評するのだろう。
(中略)詩人杜甫は「国破れ山河あり、城春にして草木深し」と詠じた。国家は歴史的事象で相対的だが、国土、民族、民衆は自然的存在で絶対的である。五〇〇〇年の朝鮮史も国家興亡の如実なドラマを史書にとどめた。分断された現代朝鮮も七〇年を過ぎ、もう歴史家の検証の対象になっている。当然である。
私が残した書『博愛の世界観』もその運命を免れない。評価はつねに後世の人々の権限である。俎上にのって裁きを待とう。ただ二一世紀の初頭に、こんな世界観を書いた人がいたという事実だけは決して消しきれない。それだけで充分である。
私はこの「ある在日朝鮮社会学者の散策」で、私自身の時空の旅の軌跡と追憶を記した。この書で若干の抗弁権を行使した。民主主義の下では被告にも抗弁する権利が与えられる。(中略)北朝鮮における主体思想研究の大まかな流れと、その流れの中で私がどう動いたかを書き留めたのは、私のささやかな抗弁権の表現である。私は主体思想の純潔を守る側にいた。主体思想に異物を持ち込んだのは権力側である。この一言で社会科学者としての私の傷心の疼きを慰めたい。(つづく)


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