大韓民国の建国史(67)

米国と中共の予告された対決
日付: 2017年04月19日 19時08分

洪熒 本紙論説主幹

 国軍と国連軍が敵を追撃したことで、収復地域の統治問題が生じた。国連は10月7日、大韓民国の主権は南韓に限定されるという決議案を通過。すると李承晩は、米国はいつも戦争に勝ち平和には負けていると指摘する手紙をロバート・オリバーに送り、収復地域における米軍政の危険性を警告した。38度線以北の収復地域の行政管轄問題は、中共軍の侵略によって韓国軍と国連軍が北韓地域から後退したことで幕を下ろした。
中共軍と米国は、1949年から激突の機会を窺う猛獣のように神経戦を繰り広げていた。国連軍が北進するや、中共軍は密かに鴨緑江を渡り、韓半島を侵略し始めた。中共は1949年、蒋介石が国共内戦で敗れて台湾に移ると、台湾海峡付近に15万の兵力と4000隻の船舶を集結させた。毛沢東は1949年7月、党序列2位の劉少奇を密かにソ連に派遣し、スターリンに戦闘機200機とパイロットの訓練のための軍事顧問団の支援を要請した。
毛沢東は台湾占領を1950年6月から8月と計画していた。スターリンは劉少奇の要請を快諾したが、6カ月も経たず「先中国・後朝鮮」支援の政策を変えて金日成の南侵を承認したため、毛沢東の台湾占領は水の泡となった。
毛沢東は、米国の韓国派兵決定直後から戦争介入を検討し始めた。人民軍が南侵して破竹の勝利を続けていた7、8月には、すでに鴨緑江地域に兵力を配置していた。中共軍の最精鋭部隊である第4野戦軍から3軍を選んで36個師団、70万の兵力に、7個の砲兵師団と高射砲部隊を追加した。中共軍の韓国戦介入は避けられなくなった。
米空軍機の満州爆撃(誤爆)に対して8月28日、国連に抗議した中共は、9月5日、周恩来外交部長の名義で国連軍が満州国境まで進撃した場合は参戦すると表明していた。スターリンは10月5日、再び政治局会議を開催。すべての政治局員は、仮にソ連が北韓を失うことになっても、米ソの直接対決は、いかなる代価を払っても回避せねばならないとの意見で一致した。
この頃、スターリンの失望は最高潮に達した。中共とソ連は10月10日、中共軍の参戦の際に、ソ連空軍がどう支援するかについて協議した。国軍が平壌を占領した10月19日、中国軍の本隊は鴨緑江を渡河。10月26日には、中共軍第50軍と66軍が追加として鴨緑江を渡り始めた。
金日成は10月11日、「祖国の危機に処して全人民に告ぐ」という録音演説を放送し、夜中に平壌を脱出して江界に向かった。韓国軍が平壌に入城する1週間前だった。金日成は米軍の爆撃が激しくなると、鴨緑江を渡って満州の通化に逃走した。金日成は10月から1950年の1月まで、江界に中央党連絡所を設置し、主要機関は満州に移した。
11月10日、米海軍艦載機が新義州の鴨緑江鉄橋を破壊した。11月14日、米第1軍団は9万人の中共軍と対峙していた。トルーマンは11月16日、極東の平和は中国の態度いかんで決まると言明した。
11月19日、東海岸の国軍首都師団はソ連国境に向かって、米第7師団は豆満江に向かって北進を続けた。11月25日、首都師団は清津を、3師団は白岩を占領。だが、国連軍は東西に分かれたため、その間を中共軍に深く突かれた。東北戦線の米3師団は中共軍126師団と戦闘を始めた。中共軍は第8軍の大攻勢に対し、60万兵力の人海戦術で総反撃に出た。
(つづく)


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