木下 公勝
私はこの機会に、帰国者が、政治犯として収容所に入れられたときの話をしたい。私は帰国直後から、同じ炭鉱の町に住んでいた金貴信と、山口県宇部市から帰国した朴承哲と意気投合した。3人は同年代で、まさに「三羽烏」だった。
朴承哲には22歳年上の姉がいた。姉は承哲に遅れること1年後に帰国。配置されたのは、咸鏡南道にある剣徳鉱山だった。剣徳鉱山は、銀やアルミニウム、マグネサイトの産出地だった。外貨獲得源の一大拠点であり、金日成や金正日が大きな関心を寄せている土地でもあった。
朴承哲の姉夫婦には、8人の息子と2人の娘がいた。息子たちはサッカー部や音楽部に入っており、成績も優秀で人気があった。
ご主人の曺圭信は、日本で大阪大学を出たものの、朝鮮人であるがゆえに希望の職に就けず、進駐軍の通訳などをやっていた。ギターやバイオリンの腕前も一流で、ギタリストのアントニオ古賀とも親交があったという。
1973年、朴承哲と、曺圭信の姪にあたる帰国者の女性が結婚することになった。親族全員が結婚式に参加するため、朴承哲の家に集まった。相手の名は曺順福といった。
結婚式の夜、曺圭信はヤマハのギターを持ってきて、「首領様もう夜更けになりました」という歌を披露した。地元の人も何人かいたので、アンコールも起きた。彼らを意識して歌ったものだった。
地元の客が帰ると、帰国者の親友たちだけが残って、音楽会は「本音・本気モード」に入った。「湯の町エレジー」や「雨に咲く花」「別れの一本杉」などを歌っているうちに、本当に哀愁漂うムードになった。
私は曺に独奏をお願いした。曺は時代背景の説明もしながら、「アルハンブラ宮殿の思い出」「ラ・クンパルシータ」「乙女の祈り」を演奏してくれた。われわれにも分かるよう、有名な曲を選んでくれたらしい。
その場には曺の息子たちもいた。父からギターを習っていたという息子たちに、私たちは演奏を頼んだ。しかし彼らは「父の前では恥ずかしい」と、最後まで拒んだのであった。
どうしても演奏を聴きたかった私は、3日後にギターができる息子5人を家に招いた。一緒に食事をした後に、ギターを持ってきて「演奏してみろ」と冗談半分で命令した。曺の長男と、7、8番目の息子はサッカー一筋でギターはできなかったが、2番目から6番目の息子はギターができた。みなすばらしい腕前だった。朴承哲と曺順福の結婚生活は、わずか1年あまりで終わりを迎えた。結婚してから1年後、曺圭信が突然保衛部に連れ去られてしまったのだ。
妻の叔父が理由も分からないまま音信不通になってしまった後、朴承哲のもとに曺順福と別れろという警告が、党幹部からあった。朴承哲は当時中学校の体育教師だったが、別れるか職を奪われるかの二者択一を迫られた。こういう事情なので、離婚協議は2カ月ほどで成立した。曺順福は当時妊娠6カ月だったが、問題にされなかった。
曺の息子たちにも影響は及び、四男は縁談が破談。六男は平壌体育大学を退学させられた。
恋人との別れを拒み、駆け落ちまでした四男はその後、不審な死を遂げた。婚約者(帰国者)の兄2人に誘われて3人でボート遊びに出かけた先の海で、溺死してしまったのだ。
家族の話では、遺体の頭や顔には殴られたような跡があり、解剖の結果、溺死の痕跡はなかったという。安全部に申告したが、「ボートが転覆した際にできた傷だろう」といって取り合ってくれなかった。政治犯の家族だったため、それ以上食い下がれなかった。
その10年後、保衛部から曺圭信の家族に連絡があった。「かつて保衛部長・金炳河の悪事で罪なき在日帰国者の一部で犠牲があったが、このたび政治犯という罪状を白紙にする」ということだった。こうして一家は、剣徳鉱山から平安南道順川市に移住した。
(つづく)