南侵奇襲を受けて以来、困難を極まる状況で、不屈の意志で戦争を指導したのは李承晩だった。8月18日、釜山に移動した政府がなすべき仕事はあまりにも多かった。金勲商工部長官は8月20日、電力対策と戦時経済建設計画などを発表した。8月21日、「徴用補償令」が公布(大統領令第381号)。尹永善農林部長官は8月22日、食糧配給と秋穀購買などについて会見を開き、金泰善治安局長は休業する商人や診察を拒否する医師への警告談話を発表した。
国務会議は8月24日、避難民救護対策要綱(5原則)を定め、各道知事会議を開催して準収容所設置と無償配給を決定。白樂濬文教部長官は8月30日、戦時学校臨時運営措置対策を発表した。
国会は9月5日、国連総会に派遣する代表として申翼熙、張澤相、鄭一亨、黄聖秀、金東成、徐珉濠を選出した。女性義勇軍教育隊も創設(9月6日)された。
急務だったのは、共産軍の経済攪乱策動に対応するための通貨交換だった。8月28日、大統領緊急命令10号で公布された「朝鮮銀行券の流通及び交換に関する件」によって植民地時代の朝鮮銀行券は回収された。崔淳周財務長官は9月14日、朝鮮銀行券100ウォン札を韓国銀行券に交換し、その使用停止を談話で発表した。具鎔書韓国銀行総裁は9月26日、朝鮮銀行券の交換完了を発表した。政府は8月31日、釜山水営飛行場を臨時国際空港に指定し、韓国を排除した国際会議で韓国問題の処理に反対する声明を発表した。
9月15日の未明、ストラブル海軍提督が指揮する第7合同機動部隊所属の空母と巡洋艦、駆逐艦などと第10軍団が乗船した大船団が仁川沖に集結した。この作戦に参加した国連軍所属艦艇は、8カ国・261隻だった。米第5海兵連隊第3大隊の先鋒が仁川水路に進入するや、一斉に艦砲射撃が始まった。クロマイト作戦と命名された仁川上陸作戦だ。
米国のほとんどの軍事専門家は「軍事的上陸は不可能」と反対した。大規模な船団が進入するには水路が狭すぎ、干満の差は10メートル。敵が水路に機雷を敷設すれば、多くの被害が予想された。成功の確率は5000対1ほどだった。だが、マッカーサーは「10ドルを出して5万ドル稼げるチャンス」と反対論者を説得した。マッカーサーの博打は成功した。
仁川港には15日の午後から小雨が降った。米第10軍団は上陸地点の海岸に兵力と装備を水揚げし、翌日、ソウルに向かって進撃した。9月17日、米海兵隊が金浦空港を占領した。9月20日午前、幸州付近で鎌とつるはしで武装した住民たちが人民軍敗残兵200人を捕らえ、通りがかりの米軍と韓国軍海兵隊に連れてきた。当時の状況を丁一權陸軍参謀総長は、このように記録した。
「米海兵部隊長と国軍海兵部隊長は、住民の協力がありがたかったが、彼らがソウルに突入するのに多くの捕虜は荷物であるため。処分に困っていた。国軍海兵隊の申鉉俊連隊長が妙案を思い出した。捕虜を一列に並べて1人ずつ当時当時大流行した『新羅の月夜』を歌わせた。正しく歌えた3分の2程度は人民義勇軍という美名で占領地から強制徴発された南韓出身で、歌えなかった残りは北傀軍兵士に違いなかった。この60人だけを捕虜として護送し、南韓出身者は故郷へ帰すことにした。ところが、釈放された南韓出身たちは、いくら説得しても、北傀軍に復讐したいと言い、海兵連隊と一緒にソウルに突入すると願った」(つづく)