拉致問題の解決と反人道犯罪の責任糾明に向けた国際シンポジウムが17日、東京都内で開かれた。北韓が携わった人権侵害事案に対して、日本だけでなく韓国やタイからも証言者が集まった。注目されたのは、かつて偵察局で日本人漁民の拉致にかかわっていた男性の告白だ。男性によると、偵察局は少なくとも50人の漁民を殺害したという。
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元偵察局職員のチェ氏(左から2人目) |
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シンポジウムでは韓・日・朝・タイから多彩な面々が訴えを行った |
シンポジウムは、ICNK(北朝鮮反人道犯罪撤廃国際連帯)、NKnet(北韓民主化ネットワーク)、ABNK(対北放送協会)の共催で開かれた。
タイ人拉致被害者、アノーチャ・パンチョイさんの甥であるバンジョンさんは「父(アノーチャさんの兄)が亡くなり、被害者を直接知る世代は私の代になってしまった。一日も早く叔母が救出されるよう、タイや日本政府だけでなく、国際社会に訴えたい」と述べた。1969年のKAL機ハイジャック事件で父親を拉致された黄仁澈さんは、事件当時3歳。帰還した一部の被害者から、北の恫喝に屈しない父の話を聞いたという黄さんは、父との再会を強く望んだ。
日本人漁民の拉致に関する証言も出た。現在、韓国のデイリーNKで記者を務めるチェ・ソンミンさんは、2001年までの30年間、元山にある偵察局(現・偵察総局)の海上基地に勤め、日本人漁民の拉致を担当してきたという。チェさんは、偵察局が1970年代から80年代にかけて、東海(日本海)で組織的な漁民拉致を行ってきたと語った。
拉致の目的は、日本の各地にある軍事基地や海底の形状についての知識を得るためだった。日本国内の協力者からの報告も送られてきていたが、複数の情報をすり合わせることで正確さを期したという。
チェさんは拉致の手段についても説明した。工作船には日本風の船名が書かれ、服は日本で売っているものを輸入して着ていたという。海上保安庁の巡視船などとすれ違ったときに工作員だと発覚しないよう、日本語も勉強していた。
ターゲットとなったのは船団から離れている船で、時間帯は漁師の疲労がピークになるという深夜1時から3時に限定された。偵察局員は甲板に飛び移ると、その中から若くて聡明そうな人物を選び、残りは船室か船倉に閉じ込めて船ごと沈めたという。チェさんによると、GPSなどの機器の発達で拉致が難しくなった1985年ごろまでの間に、拉致した日本人漁民は10人、殺害された日本人は50人以上に上ると推定される。
チェさんは、今も北韓に残る先輩から当時の資料を入手しようとしており、詳しい襲撃場所がわかれば、日本側と協力して拉致の物証となる沈没船を探したいと述べた。