脱北帰国者が語る 北の喜怒哀楽

政治犯収容所の解体(2)
日付: 2017年03月15日 22時54分

 私たちは集合初日に鏡城郡の行政委員会に移動し、運搬用の中型トラックを割り当てられた。翌日早朝には、ソ連製の大型トラック3台に分乗して、現地に向かった。
出発から30分で下温浦、さらに30分で上温浦を通過した。その辺りは温泉地帯で、金日成の「特閣」(別荘)があった。そのため道路は舗装されていたのだが、そこから先は道幅も狭く、未舗装のでこぼこ道になった。
トラックは激しく揺れた。後輪が浮いて地面に叩きつけられるたび、荷台に乗った私を含む約25人の隊員たちは、ふるい落とされそうになった。カーブや急停止の際には人が一方に偏り、つぶされた人が悲鳴を上げるような状況だった。
「苦難の自動車行軍」の末、約3時間半後に目的地近くに着いた。私たちを出迎えたのは、私服姿の道保衛部の指導員6人だった。その場で指導員からの訓示があり、工事が終わるまでは一切の自由行動が禁じられた。また、工事現場で見たことや聞いたことは、口外禁止であるという点も強く言いつけられた。
道路工事中は必要な個所以外の草木を取ってはならず、自然の景観を最大限に保存することも命令された。ところが工事の途中、ある中隊長が残すように言われていた老松を、邪魔であるとの理由で切ってしまった。中隊長の姿はすぐに見えなくなった。この工事が特別重要な任務であると、そのとき気づいた。
訓示の最後には約束事のように「敬愛する金日成主席様と親愛なる指導者・金正日同志がこのような大規模工事をわれわれ咸鏡北道に任せてくださった信任と配慮に最大限の忠誠心を発揮し、勝利の報告を上げるべきだ」という指示もあった。
道党委員会宣伝副秘書からは、今回の”道路工事”が経済・政治・軍事的に大きな意義があるため、期間内に完成させるよう通達があった。工事の過程で多大な業績を残した者は、労働党への入党と国家勲章の授与を考慮されるとも伝えられた。
私たちは、組織別・男女別に宿泊場所を割り当てられた。集合地点から徒歩5分ほどの場所に、かつて管理所の保衛部員や警備員たちが使っていた約40棟の平屋住宅があった。1棟に2世帯入ることができた。
合同の食堂も指定された。起床は6時、それから身支度と食事を済ませて7時からの30分間は国内外の情勢学習や思想教育に当てられた。土曜日には生活総和があった。
それが終わると30分かけて現場まで移動し、8時から12時までが午前中の作業、午後1時半までは下山して食事、その後再び山を登って2時から6時までが午後の作業時間だった。
仕事が終わると隊ごとに食事をとり、7時半から9時までは休憩及び娯楽の時間となった。娯楽時間は、楽器に合わせて指導者を賞賛する歌を歌うところから始まる。それが終わると分隊ごとに指名された人が独唱をする流れになった。
体調のすぐれない作業者を無理やり引きずり出してくることはなかったが、作業で疲れているはずの隊員からは不平・不満の声は聞かれなかった。生まれた時からこうした集団生活や強制動員作業が習慣になってしまっているからだと見受けられた。
今考えてみると、北朝鮮の人たちは音楽や芸術を好む楽観的な民族性を持っているともいえるだろう。この点はほかの国の人たちと同じだろう。
ある日のこと、作業現場の指揮を執っていた道の国土管理局幹部が「今日は小隊全員で保管してあるジャガイモを食堂まで運ぶこと」と命令した。私たちは保衛指導員に案内され、向かいにある山の中腹まで1時間ほどかけて歩くことになった。
汗だくになって着いた場所は、学校の運動場の50倍はあろうかという平原だった。視線を上げると山頂まではまだあった。指導員の説明では、北朝鮮で2番目に高い冠帽峰という山だった。標高は2500メートルを超えるという。
(つづく)


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