韓国史を彩る王たちの物語58 百済11代 比流王

日付: 2017年02月08日 17時53分

百済中葉の発展に努めた

 古代王国の建国神話では、国を興した人が初代王になり始祖として奉じられているが、百済初代王の温祚は始祖として奉じられていない。高句麗を建てた高朱蒙が始祖として崇められていた。
第二代を継いだ多婁王は、その翌年の「正月東明廟に拝謁」(『三国史記』)したが、百済を建国した父の温祚王陵を拝謁したという記録はない。東明廟は高朱蒙の陵墓であるが、高句麗と百済の始祖として奉じられていたことが、『続日本紀』にも見える。
沸流と温祚兄弟が高句麗を出て、温祚がいまのソウル漢江の流域で国を興したのが百済の始まりである。王位が血縁の濃度の影響を受けているのは確かであり、この項では仇首王から比流王に至るまでの王位の血縁関係と、そのしきたりを踏襲するために起きた歴史的矛盾を追ってみよう。
第11代比流王(在位AD304~344)は40年も王位を務め、百済の発展に尽くした王である。父の第6代仇首王が亡くなったとき比流はまだ幼く、その後巷間に住み王位に就ける環境ではなかったが、第10代汾西王が楽浪の刺客に襲われて落命しその後を継ぐことになった。当時まだ楽浪郡が存在し、高句麗・百済・新羅と競い合っていた。比流王は第6代仇首王(AD214~234)の次男であり(『三国史記』)、それに基づけば68歳で王になり、40年つまり108歳まで王位を務めていたということになる。
仇首王が亡くなり、幼い長男の沙伴が第7代王位を継いだが政が務まらず、肖古王の母の弟である古尓が王位を継ぎ第8代古尓王となる。仇首王と血縁的には薄い古尓は業績を残しているが、比流王までの他の王の業績は小さい。古尓王の跡を子が継ぎ責稽王、責稽の跡を継いだ長男の汾西王が楽浪の刺客に襲われて早死し、実子はいたが王位を継ぐには幼すぎた。そうした環境の中で、高官と民が第6代仇首王の次男比流を王に推戴し、第11代比流王が生まれた(『三国史記』)。
比流の性質は寛大で人を愛し慈愛深かった。また、体力にも優れ弓術にも長けていた。父王の没後長い間市井で生活し、民の人気も高く、王に推戴されるほどの優れた人物で、しかも40年間在位し、百済中葉の発展に努めた(『三国史記』)。
(キム・ヤンギ 比較文化学者)


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