一人の生涯を知ろうとすれば、その人の葬儀を見ればわかるという話がある。1971年8月25日、東京都千代田区の九段会館で執り行われた「義士 元心昌」の葬儀は、先人の格言を実感させる席だった。
現場の日本人記者は、故人と一度も会ったことがないにもかかわらず、取材をしながら流れる涙をどうすることもできず、元氏の自宅付近に暮らす日本人も献花して隣人の死を哀悼した。
日帝時代の同志で新民党国会議員である梁一東氏は、追悼辞途中に込み上げる悲しみに耐えることができずに声を出して絶叫した。梁議員は「元氏が、成し遂げることができなかった祖国統一のために身を投じる」と告げた。
民団中央団長在任時の故人の除名に先頭を切った権逸共和党国会議員は「1945年末初めてお会いして以来、民団運動と統一運動で恩恵と援助を受けた」と述べ、「悲痛な心を禁じ得ない」とうなだれた。式場には、本国と在日同胞の知人、統一運動をともにした同志らだけではなく、栗原一夫氏をはじめ、多数の日本人が参列して故人の最期を見送った。
日本の立場でいうと元心昌という人物は、自分たちに向けて抵抗し争った一外国人であった。それにもかかわらず、なぜ日本人がこの異国の故人に弔意を示して涙まで流したのだろうか。現場の記録は、このように残している。
「報道席で通訳を通じて取材していた日本人記者たちさえ深く感動した。先生の遺言の一節である『民族の多幸を見られずに行く大罪を背負って、先祖のそばに向かう不安を感じるだけ』が引用されるのを聞き、彼ら日本人記者は、涙を拭おうともせず、そのまま取材を続けた。名利も富貴も望まないで、ひたすら祖国と民族を愛し、そのために一生を捧げた先生の生涯は国境を越えて人間の心に響くものであった」(統一朝鮮新聞、1971年8月25日‐9月1日合併号)
故人は、物静かな方だったが、心は熱い品性の持ち主であった。アナーキスト評論家の秋山清氏は「私の自宅が競売にかけられた時、彼が他人の手に渡らないように競売場で流札にし、知人の不動産屋に言って、自宅競売を解決してくれた」と述べ、「それにもかかわらず、元心昌氏は自分がしたことを口の外に出したことがなかった」と告白した。秋山氏は「彼が親切な人だったという記憶、彼が日本で行った社会運動を永遠に忘れないだろう」(1971年9月)という記録を残した。
一日中小雨が降り続ける中で挙行された、この日の葬儀には720人が集まった。日帝軍国主義の象徴的な場所の一つである九段会館で抗日独立活動家、韓国の統一活動家の葬儀が執り行われたという事実は、それ自体が興味を引く状況だった。
午後2時、司会者の尹奉啓氏の開式宣言で始まった葬儀は、3時間近く続いた。崔裕尊大行寺住職が読経、李榮根統一日報社長の式辞、鄭哲の故人略歴報告、そして弔辞が始まった。 弔辞は、李〓駐日韓国大使で始まり、丁賛鎭、鄭華岩、李康勳、朴基成、梁一東、栗原一夫、李殷相、裵正、曺寧柱、権逸、金熙明、李元世の順で行われた。
続いて弔歌献唱とカヤグム献奏、献花、未亡人である智耶女史のあいさつの後、最後に梁三永氏が、義士元心昌社会葬委員会代表としてあいさつをした。
祭壇の真ん中は、赤色と青色のカーネーションで描かれた太極文様の花で飾られ、その周りは白い菊の花で囲まれた。壇上中央の壁には、元氏の影幀が置かれた。祭壇の両側には、韓半島13道を象徴する13個のキャンドルが灯され、コーナーのパネルには、右側に「一つの同胞、一つの意志で、一つの道を歩いて行こう」が、左側には「一つの心で、一つの地、一つの祖国を」という言葉が掲げられた。
民族文化協会代表である詩人李殷相氏の弔辞は、その文言があまりにも哀切で参列者たちの心の琴線に触れた。
「元義士よ!解放は名前だけで、振り返れば国土の半身不随、国民の思想分裂、落伍した苦い汁をそのまま飲んでいる民族の悲運!これがまさか義士と独立闘士同志らが迫害受けて血を流しても目をつぶることができない寃魂の代価だというのか。<中略> 今、この時間、私たちはここで誓います。若くして祖国光復のために身を捧げて、次には祖国統一のために奮闘した義士の進んだ道を、私たちも付いて行くことを義士の霊前に誓います」