大韓民国の建国史(56)

南韓住民を略奪の対象に考えた金日成
日付: 2017年02月01日 09時36分

 朴甲東は、国連軍の仁川上陸作戦がなかったとしても、人民軍は洛東江戦線でそれ以上持ちこたえられなかったと話す。理由は、北韓から一粒の食糧も持って来なかったためだという。元南朝鮮労働党員の朴甲東の説明だ。
「人民軍の最大の弱点は、補給部隊がなかったことだ。これはロシア革命内戦のときに、赤軍が食糧を革命支持者に依存して煩雑な食料輸送をせず機敏に部隊移動をしたことを模倣したものとみられる。(中略)人民軍は各地に人民委員会を組織して食料を調達した。人民軍は農民に、土地をタダでやるから食料を出せと言った。(中略)金日成は8月15日、軍党と人民委員会に特別命令を下し、南韓農民に対して書類の手続きなしで、『これをあなたに与える』と口頭で土地を分配するよう督促した。南韓農民から義勇兵として兵力と食糧を捻出するため、金日成はいよいよ最後の手段を使ったのだ」
南韓を解放後、南韓人民の衣食の心配を全くしなかっただけでなく、「南韓へ武器だけ持って行けば、ただで革命が成し遂げられる」という金日成の略奪的な考えは、南韓人民に大きな苦痛を与え、二度と金日成の統治下には入らないという強い嫌悪感だけを残した。
北側は南韓で食料を調達するため努力したが、住民の非協力で目的を達成できないとわかると、農民に無料で土地を配るという条件で食料を供出させようとした。だが、この方法も効果がなかった。南韓農民は農地改革により、すでに土地を所有していたからだ。
さらに北韓は占領地で戦時動員令を下し、19歳から37歳の青年は、みな「義勇軍」という名で強制徴集して戦線に駆り出した。19歳に満たない中学生も強制動員した。彼らは南韓の青年を動員して、国軍に銃口を向けさせたのだ。白昼の路上でも若者を拉致したため、人民軍への民心は悪化した。
1950年、平壌駐在ソ連大使スティコフは、北韓軍が占領した南部について59ページにわたる詳細な分析「南朝鮮解放区の住民の政治動向」をクロミコ外務第1次官に提出した。この資料によると、朝鮮人民軍が南侵したとき南の民衆の多数は、受動的だったと評価されている。多くの住民が、李承晩政権の宣伝もあって、人民軍を「泥棒の群れや強盗」と見て、歓迎するどころか山岳地帯に逃げたと報告している。
スターリンは金日成に、米軍が本格介入する前に、戦争を終わらせろと南進を促した。スターリンの意図は2005年、ロシアの社会政治史国立公文書館(RGASPI)に保管されていたスターリンの極秘手紙が公開されて明らかになった。この手紙は、国連安保理会議が開かれてから2カ月後の1950年8月27日、スターリンが「フィリッポ・プ」というコードネームの駐チェコソ連大使に送ったもので、「チェコスロバキアのゴットバルトに次のメッセージを口頭で伝えること、要求されれば筆写して提供すること」という指示がついていた。
8月下旬といえば、共産軍が南韓の大部分を掌握し、国連軍の洛東江防衛線を突破するため総攻勢をかけていたときだ。スターリンは、米軍と国連軍を韓半島に引き入れるため、国連安全保障理事会にソ連代表を出席させず、膨大な兵力をもつ中共軍を相手にした米軍を韓国戦争で足止めし、ヨーロッパに気を使えないように戦争を長引かせねばならなかった。中国軍を韓国戦争に介入させ、米軍と戦わせることの戦略的利点は、詳しく羅列されている。(つづく)


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