南侵初期の不意の奇襲で収めた北側の戦術的勝利は、漢江渡河後に露呈した北韓軍の無計画な戦争遂行のため台無しになった。金日成に正規軍の師団長程度の軍事知識があったら、このように冒険的で愚かな戦争指導はしなかったはずだ。だが、パルチザンゲリラ隊長出身の金日成は、せいぜい100人から200人しか指揮した経験がなかったため、緒戦の勝利に酔ってまともに戦争を実行する理性を失った。
人民軍は破竹の勢いで南下して8月初めには洛東江で背水の陣を張った国軍と米軍の最後の防衛線に到達した。米国は、北韓軍の攻撃を阻止するのではなく、侵略者を敗走させることを目的として軍事力を動員しはじめた。米上下院は7月20日、トルーマンの米軍強化案を圧倒的多数で通過させ、兵力保有制限法を撤廃した。北韓軍は開戦1カ月も経たないうちに、米空軍の空襲で補給が絶え、一線部隊が枯死の危機に陥った。
北韓軍の精鋭を集めた6師団(師団長・方虎山)は、南侵主攻線から離れ湖南地域に向かった。この不要な迂回は、釜山に橋頭堡を築く時間的余裕を国連軍に与えた。8月7日から11日の間に国連軍が馬山近くで6師団を撃破すると、戦争は新局面に入った。
7月に入ってソ連極東軍司令部では、「金日成が戦争で負けることもあり得る」という話が出はじめた。南韓に現れた米第24歩兵師団、米空軍の北韓後方攻撃、トルーマンの決断力、国連軍司令部の創設とマッカーサーの国連軍総司令官任命など、ハバロフスクのソ連極東軍は北韓軍が戦争の目標を達成できないとの結論を出した。
マリノフスキー元帥は1964年、『スターリンと金日成』の著者のガブリル・コロトコフにこう言った。
「金日成が攻撃3日目になっても、ソウルの南へ攻撃部隊を迅速に進められないのを見て、韓国戦で勝算がないという私の確信はさらに強くなった。彼はソウルの韓国軍主力部隊が包囲網を突破するのを放置したのだ。そのとき破滅の前奏曲は始まった。戦争の状況を慎重に分析した結果、金日成はすでに1950年8月に敗北したことが分かった」
金日成は自力で勝利が難しいと判断し、スターリンにソ連空軍の支援と中共軍の参戦を要請した。スターリンは、ソ連軍事顧問団の派遣については同意しながら、派遣した軍人たちを『プラウダ』紙の記者に偽装すること、絶対に敵の捕虜にならないようにすることなどを特別に指示した。
中共党指導部も、米軍が釜山に到着した翌日の7月2日、駐中ソ連大使に「米軍が38度線を超えれば中国軍は北韓軍に偽装して戦う。ソ連はこの部隊を空中援護してほしい」と要請した。同日、中共党中央委員会は、米国の介入への対応策として、東北辺境軍創設を決めた。事実、北韓軍が破竹の勢いで南下した7、8月が中共軍派兵の最適期だった。
米軍の兵力と武器が大挙展開される前に中共軍が介入していたら、戦争を終わらせられただろう。だが、スターリンは中共軍の早期派遣要請を黙殺した。戦争を長引かせ、米中を激突させることがスターリンの狙いだったからだ。
南進する北韓軍部隊は、米空軍の大々的な空襲で補給路を断たれて深刻な状況になった。弾薬の節約、戦死者の武器と弾薬を回収、食糧も1日1食に減った。洛東江戦線で飢えと米軍の爆撃で兵士たちの脱走が続出するや、金日成は8月の初め、「逃亡者即決銃殺」を命令した。(つづく)