在日の英雄 義士 元心昌41

統一政策を勝共から平和共存に転換
日付: 2017年01月01日 22時08分

元心昌、朴正熙大統領との面談

 1968年1・21事態(北韓の武装ゲリラによる青瓦台襲撃事件)は、統一朝鮮新聞(統一日報の前身)と「韓民自統」(韓国・民族自主統一同盟日本本部)に代表される在日同胞の統一運動組織の理念志向が鮮明になる転換点であった。右派と中道派、左派の間の気まずい同居が終わり、各自が選択肢を探していくきっかけとなった。激しい内部論争の末に導出された結果は、統一朝鮮新聞の連載「実践的統一運動の課題」であり、「韓民自統」と「韓民自青」(韓国・民族自主統一青年同盟)は韓国の立場に立った統一運動を展開することに方向を取った。この論旨に反対した左派社会主義者たちは組織から脱退し、民族統一新聞を創刊し自分の道に進んだ。
統一朝鮮新聞は同年3月11日付連載を通じて北韓で金日成の個人崇拝と偶像化が行われていると指摘した。国内外をあわせて、初めての金日成偶像化批判だった。後続記事が続いた。新聞は同年9月28日付第1面「最近、北朝鮮の『統一』政策について」との題目の「主張」を通じて、北韓の統一政策が武力に変質していると、次の論拠を挙げた。
「(北韓は)六六年十月の労働党代表者会議の頃から統一政策に変化の兆をみせはじめ、六七年十二月の最高人民会議第四期第一回会議でのいわゆる政府『十大政綱』では、平和統一の主張は完全に影をひそめ、それに代り韓国において、革命的人民により『武装小組』活動が展開されている、というそれまでみられなかった主張と共に、統一政策においては、『革命的大事変を主動的に迎える』ということが繰り返し強調され、自主統一が強く前面に押し出された。(中略)今年の一月二十一日、北朝鮮武装ゲリラのソウル侵入事件が発生し、その路線転換の予測を裏付ける結果を招来した。同事件に対し、北朝鮮当局は?南朝鮮人民による武装闘争である”との欺瞞的主張をくり返しているが、それが北朝鮮武装ゲリラによるものであることは、全世界周知のことであり、あらためて指摘するまでもないであろう。」
同年12月の「韓民自統」は第2回大会を開催し、 「金日成政権の反統一的冒険主義と戦争挑発政策に断固反対する」と決意した。要するに、北韓が統一政策で「平和」を捨てて韓国内部での暴力的な状況を通じた革命または自主にかこつけて、「武力」の使用を敢行する方向に路線転換したという指摘である。
このような観点から見ると、韓国で行われた2008年の米国産牛肉の狂牛病扇動デモや最近の崔順実国政壟断デモは1967年に北韓が唱えた「革命的大事変」の前兆であり、「韓国内民衆革命」の現象として解釈される。結論として、1968年の年初から年末まで続いた統一朝鮮新聞の報道と周辺の動きは、元心昌、李栄根など在日同胞の統一運動のリーダーが北韓政権の統一政策に完全に期待をあきらめたことを示していた。
そうであれば、本連載第40回に言及した元先生のソウル行きはどのような意味を持っているのだろうか?まず、彼のソウル行きの時点に対しては、当時、先生と交流していた人の記憶に異なることがあることを明らかにしておく。「韓民自統」離脱者らが1973年に出版した本『政治詐欺師・李栄根の歩んだ道』は、「1968年2月、『韓民自統』の代表として帰国した」としたのに対し、この時期「韓民自青」の幹部だった姜昌萬・現統一日報社長は帰国時期を「1968年の末か1969年の初め」と記憶している。当時、ソウルで元心昌先生を直接会った甥・英載氏は、「叔父が1・21事態以後に来たのは確かで、花が咲いた時期で3月頃」とし「朴正煕大統領の招待で軍事空港を通って入ってきて、ソウルから故郷(平澤)に移動するときに官用の黒色セダンの複数台が警察エスコート下に動いた」と証言した。姜社長は「密かに帰国したが同志たちはその事実をすべて知っていた」とし「横田空軍基地(Yokota Air Base)で米軍ヘリに乗ってソウルを行ってきたと聞いて、元先生はその前と後にうんともすんとも言葉がなかった」と明らかにした。
元先生は帰国して、朴大統領との単独対談をはじめ、政府高官と会った。大統領に統一運動の方向と方法論などについて助言をしており、この時、政府とある合意を導き出したという。その消息は日本の統一朝鮮新聞と「韓民自統」盟員にそのまま伝えられた。「韓民自統」盟員らによると、次のような了解がなされた。
1)統一朝鮮新聞と「韓民自統」は韓国的な立場で統一運動を展開していくものである。
2)韓国政府は統一政策を変える。武力使用を伴う勝共を捨てて、祖国の平和的統一を追求する。(つづく)


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