大韓民国の建国史(53)

「作戦指揮権移譲」は李承晩の深謀遠慮
日付: 2016年12月14日 21時03分

 米25師団が釜山に上陸し、第5空軍が韓国に移動した7月10日、李承晩は北側の侵略によって38度線が消滅したと主張した。だが、トルーマン政権の戦争目的は、国連安全保障理事会決議(6月25日と27日)どおり、北韓軍を38度線まで撃退することだった。
米国務長官アチソンは7月10日、ワシントンで開催された米国新聞協会の集会で、米国は安保理決議に基づいて大韓民国を北韓軍の南侵以前の状態に取り戻すと表明した。
李承晩夫人のフランチェスカは、大統領の要請で6・25戦争を毎日記録した。フランチェスカの日記によると7月11日、自由中国の邵毓麟大使が李承晩を訪れ、自国軍2万~2万5000人を派兵する用意があると参戦意思を伝えてきた。李承晩は丁重に断った。夫人が大統領に拒否した理由を尋ねると、「中国軍を自分の手で(韓半島に)招き入れるわけにはいかないではないか」と不愛想に答えたという。
7月6日、米国の銀行家たちが大統領を訪ねて通貨改革を提案した。ソウルを占領した共産軍が朝鮮銀行券を大量に使い、偽造紙幣が出回って新券が必要ということだった。政府は7月20日、新貨幣の1000ウォン札と100ウォン札を発行した。
李承晩が7月14日に作成した「大田協定」と呼ばれる韓国軍の作戦統制権を国連軍司令官に委譲する書簡に対して、マッカーサーは18日、ムーチョ駐韓米国大使を通じて受諾書簡を送ってきた。李承晩とマッカーサーの書簡は7月25日、国連事務総長に伝達されて安保理に提出。国連統合軍司令官が韓国軍の作戦指揮権を持つことになった。
李承晩が国軍の作戦指揮権を移譲したのは主権の放棄ではなく、国連軍司令部に韓国戦遂行の責任を全的に負わせ、韓国軍を国連軍の一員として戦争する軍隊に変貌させることだった。韓国は国連に加盟していなかったが、韓国軍を国連軍の一員としたことで韓国を国連の会員国にする効果を狙った。これこそ李承晩が作戦指揮権を移譲した理由だった。米国主導の国連軍に戦争の無限責任を負わせた深謀遠慮だった。
国軍は後退しつつ部隊を再編成し、7月15日、慶北・尚州で国軍2軍団を編成した。米軍将校たちは韓国軍将兵が砲火の中で見せた勇気を高く評価した。李承晩が留まった大邱の臨時景武台(大統領府)は水すら不足し、大統領夫妻の洗濯も難しい状況だった。フランチェスカの日記には、当時の困窮が詳細に記録されている。だが、みなが必死に仕事し、誰も不平を言わなかった。
李承晩がこの劣悪な環境でも大邱に滞在した理由は、自分が大邱に留まれば米軍が後退しないと判断したからだった。国会も行政府と一緒に大邱と釜山を移動しながら本会議を開いた。散らばった国会議員たちが集まって7月27日、大邱文化劇場で第8回臨時国会が開催された。6月27日の未明以来、ちょうど1カ月ぶりだった。集まった議員は、在籍210人の3分の2をわずかに超える148人だった。
7月20日、米24師団が大田を失い師団長のディーン少将が失踪した日、李承晩は米国の派兵と国連軍参戦を導き出した米国大統領に感謝書簡を送った。この書簡には、この戦争が統一の機会であり、わが政府の同意と承認なしに韓国に関して他国が決定するいかなる協定や諒解事項も受け入れられないという決然たる意志がつづられていた。        (つづく)


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