在日の英雄 義士 元心昌39

具体的な手順を明記した最初の統一論
日付: 2016年12月01日 10時49分

統一朝鮮年鑑で振り返る統一方案

 統一朝鮮新聞(1959年11月21日~1973年9月1日)時代初期の1960年代初め、韓半島は激変期だった。韓国では李承晩大統領が下野し、短命内閣を経た後、朴正煕による5・16クーデターが起きた。同じ時期、北韓では首領制のもと統治された金日成独裁体制が進められており、後継を囲んだ内部の権力争いが本格化していた。
この時期、統一朝鮮新聞の論調は韓国政府と北韓政権双方に民主化を要求していた。紙面は独裁権力で進められてはいけないと、繰り返し指摘した。この時は北韓よりも、韓国政府に対する批判基調が強かった。
これは、共同創刊者の李栄根氏の知人らが相次いで死刑執行されたことと無関係ではないようだ。李氏が参謀兼秘書室長として補佐した曹奉岩進歩党党首が、裁判も受けられずスパイ疑惑により死刑執行(1959年7月31日)された。また、”反独裁政権”を主に主張し1961年1月に創刊された『民族日報』はクーデター軍部が執権した年の5月に強制廃刊になったのに続き、民族日報社長の趙鏞寿氏が12月に処刑された。民族日報と趙社長は容共疑惑を受けて逮捕後、死刑執行まで7カ月という非常に短い期間ですべてが断行された。韓国治安局は、「スパイ李栄根からの指令のもと、工作金を受けて新聞発刊に熱中した」という趣旨の調書を残したが、2008年1月16日、ソウル中央地方法院は趙氏に無罪宣告を行い、国家は遺族に賠償した。
1930年、慶南晋州生まれの趙鏞寿氏は民団栃木県本部で北送反対委員長を、民団中央本部では次長として北送反対のプラカードデモ行進を行った人物だ。李栄根氏が通った延禧専門学校(現在の延世大学校)の後輩で、二人は格別の関係だったことが伝えられている。統一朝鮮新聞は曺奉岩、趙鏞壽救命運動を精力的に広げたが、結果的に無為に帰してしまう。
このような背景に加え、新聞は韓国政府が「統一議論」自体を許していないという事実を集中的に浮き彫りにし、「反統一政権」と批判した。
1962年1月1日、創刊3周年号では、「言論の自由がない韓国国民に代わり『クーデター政権の欺瞞的宣伝を阻む』ことが新聞の役割」と主張することもあった。この頃の筆陣が、粘り強く韓国に向かって「民主化」を要求したのは、民主という政治体制の完結を目指した面もあるが、「民主化」が統一という目標を達成するために不可欠であると認識していたと解釈することができる。
一方、新聞が1960年代に発刊した『統一朝鮮年鑑』は、南北統一の原則と手順、そして統一方案までを細かく提示した初めての記録物だった。年鑑は1964年版(64年10月刊)、65~66年版(65年11月刊)、67~68年版(67年8月刊)の3回にわたり発刊され、統一理論だけでなく韓国、北韓の政治、外交、経済、社会に対する動向や年表まで網羅した。韓半島問題において、当時のことを具体的に記録しているという事実から、歴史的にも貴重な資料集といえる。
それでは、当時の統一朝鮮新聞の統一論はどのようなものであったのか? 
そして、その時期に提起された他の統一論とは、どのような差があったのだろうか?
民族日報政治部次長を務めた後、渡日して統一朝鮮新聞の筆陣に加わった孫性祖氏は、著書『亡命期』のなかで次のとおり説明した。
「統一の具体的な方法としては、(1)武力統一案、(2)国家連合案、(3)連立政府樹立案、(4)北韓単独選挙案、(5)南北両地域での同時総選挙案、の5案を挙げることができる。(1)は、勝利のない戦争といわれる6・25動乱により、統一を達成できないという事実が立証された。(2)は北韓が1960年8月に提唱した連邦案の一種であるが、現実的に韓国だけでなく、自由陣営諸国からも賛同を得ることはできない。(3)は南北両地域がそれぞれ一定数の代表者を選出して連立中央政府を構成する案だが、南北の代表数の比率、選出方法などに多くの難点がある。(4)は李承晩政府が出して米国が支持したものだが、ジュネーブ政治会談で南北両地域での同時総選挙案が合意されて以来、国内的にも国際的にもほとんど考慮すべき対象に含まれていない。(5)は南北両地域で共通の選挙法に起因して、同時総選挙を行い、統一政府を樹立するというものだ。この案は韓国内で、韓国の主権を侵害するという口実から反逆的なものとして扱われてきたが、国際的には韓国と北韓を含む東西両陣営の間で原則的に合意をみた唯一の案だ」(『亡命期』127~128頁、1965年2月15日発刊)。
結論として、当時の統一朝鮮新聞の統一論は、南北連合制や連邦制でもなく、韓国と北韓が選挙方式のルールに合意して、両地域で同時総選挙を行うというものだった。1950年代の元心昌氏の統協(南北統一促進協議会)路線を継承しつつ、具体的な実行手順を導きだしたのだ。(つづく)


閉じる