大韓民国の建国史(52)

「解放した」 ソウル市民を敵にした金日成
日付: 2016年12月01日 10時22分

 北韓軍が南侵3日でソウルを占領するや、金日成は直ちにソウルに来て大統領官邸だった景武台で休み、中央庁の地下室に設けられた前線司令部で勝利を祝う宴会を開いた。戦闘部隊は3日間進撃を止めて祝賀会を開き、人民軍はソウル市内を見物して買い物をするなど、修学旅行の学生のように行動した。この3日間の空白が奇襲を受けて戦列が崩れた国軍に再整備の時間を与え、米軍が参戦準備をする決定的時間となった。
開戦当時、人民軍の作戦局長だった柳成哲(金日成の88旅団以来のロシアの通訳。後にソ連に亡命)は、「南侵計画は3日以内にソウルを占領することで終わることになっていた。首都を占領すれば南韓全体がわれわれの手に入ってくると勘違いしたのだ。ソウルを占領すると南韓全域に潜伏している20万人の南労党党員が蜂起して南韓政権を転覆させるという朴憲永の大言壮語を信じていた」と証言した。朴憲永は6月28日、南労党員たちに、大衆的・政治的暴動を起こすよう総決起を呼びかける放送をした。だが、南韓全域で人民軍の南侵を歓迎する南労党の暴動は1件も起きなかった。国家保安法で国軍内の南労党細胞が全部除去されていたからだ。
金日成は、ソウル市民への食糧配給を中断し、反動粛清に着手した。占領下のソウルのすべての工場や職場を閉鎖し、「働かない者は食べるな」と宣言した。南韓で「人民義勇軍」40万人を徴集し、ソウル市民を敵にした。金日成は戦争が始まる前、平壌放送を通じて「李承晩など最高指導部9人以外は政治的責任を問わない」と宣伝したが、ソウル占領後、全公務員を逮捕した。
金日成は南韓住民を組織的に拉致しはじめた。数多くの越南者のため不足していた人材、特に高級人材を補充し、公務員など建国に必要な人材を拉致して大韓民国の土台を破壊しようとした。ソウル占領前に、144万のソウル市民のうち脱出できたのは40万人程度だった。その8割が越南者で、残りは高位閣僚や政治家、軍人と警察および公務員の家族だった。
米空軍が6月27日から北韓全域を爆撃し始めるや、金日成と北韓指導部は大きく慌てた。金〓奉、洪命憙などは占領したソウルを守るべきだと主張するなど、動揺が起こった。ソウルを占領した北韓軍が3日も進撃を止めた理由は、ソ連が支援を約束した武器と装備が到着しなかったためだ。
スターリンはソ連介入の痕跡を残さないため、北韓軍に派遣されたソ連の軍事顧問を通信機器と一緒にすべて撤収させた。スターリンは、武器や渡河装備などを十分に提供しないながらも、漢江の南への進撃をためらう金日成に「何があっても進撃を続けろ」と督励した。人民軍はスターリンの圧迫に屈して漢江を渡り、本格的な南進を開始した。黄長燁の証言によれば、金日成は「南侵戦争で勝利できなかった理由は、ソウル占領後、直ちに漢江を渡らなかったためで、その原因はスターリンが渡河装備など軍需支援をしてくれなかったため」と語ったという。
7月10日の午後、米空軍機が平澤の上空を飛行中、国道に一列に並んでいた大規模の戦車と車両部隊を発見した。米5空軍はB‐29爆撃機まで動員してこの部隊を攻撃、人民軍戦車38両、自走砲9両、輸送車両117両を破壊した。人民軍戦車はこの日以降、昼間は果樹園とトンネル、建物の中などに隠れ、夜間や早朝にだけ移動するようになった。制空権を奪われ、T‐34戦車の威力は失われはじめた。         (つづく)


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