この黄金遊園の正門をくぐると、向いにブランコがあり、さらにそこから西側には遊動木があった。正門の右側には、いくつもの鳥かごがずらりと並んでいた、名も知らぬ鳥とオウムがのんびりと遊んでいた。またその横には猿が何匹かいて、若い人たちは猿のおかしな仕草を眺めたり、あるいはオウムに言葉を喋らせたりした。
そのオウムは、易しい言葉をすぐに真似た。
「オモニ、アボジ、アンニョン、カセヨ……」
しかし私はこんなものを見にきたのではなく、ブランコに遊動木、それに鉄棒があるので、それで運動をするために毎夕のようにそこに通った。
当時の光武劇場は、もともと東大門内にあった。その劇場での演し物は映画のほかはいつも同じで、特別変わったものといえば、曲芸師の綱渡りがあった。それもそれほど遠くない距離を綱渡りするだけだった。したがって、いつもガラガラで赤字に苦しんでいたようだ。上映日よりも、休館日のほうが多かった。
そんなある日、「チン峠(現乙支路二街あたりの少し高台で、少しでも雨が降ると泥濘になったのでチンコゲと呼ばれた)」に日本の新派劇団がやってきた。朝鮮での公演はそれが最初だから、客が集まると思って呼んだのである。ところが当てが外れたのだ。まず朝鮮人は日本語がわからなかったし、まだソウル花街の日本人は少なかったので興行的に失敗したのだ。幕開けして一か月もしないでたたんだ。
問題は公演を見込んで雇った一〇人以上もの朝鮮人のことであった。彼らに給金も払えないものだから、頭を下げて許しを請い、結局は演劇の道具全てを朝鮮人に渡して逃げるようにして去った。
道具一式を手に入れた朝鮮人たちは、昼は働き、夜になると遅くまで劇の練習をしていた。いつしか三〇人以上の人員を抱え、旗揚げしたのが林聖九の新派劇「革新団」である。
新派劇「革新団」の初出しもの、「六穴砲強盗」で、興行的に大盛況となった。林聖九が、とりわけ悲劇を演出すると、観客は皆、涙を流して嗚咽し、その人気たるや大変なものだった。女役を男がやったが、当時は何も知らずに観ていたのだが、今思い返してもそれは傑作中の傑作に違いない。
林聖九が歓迎された理由は、ほかでもない時間のせいだった。それまでは夕方八時に開演という広告を出しても、実際には九時半過ぎて始まるのが普通だった。ところが、林聖九は七時半になると、一分たがわず開演した。
そして劇場のひける頃ともなると、何台もの人力車がいつも彼らを待っていた。彼らはきまって花柳界へと向かうのが常だった。結局、その後林聖九は花柳界に溺れ、身を持ち崩してしまったという噂だった。