在日の英雄 義士 元心昌38

財政難のなか、英字誌から年間まで発刊
日付: 2016年11月23日 23時39分

 統一日報の前身である朝鮮新聞(1959年1月1日~11月20日)と、統一朝鮮新聞(1959年11月21日~1973年9月1日)は現在同様、大衆紙ではなく特殊性が強かった。創刊の趣旨も、平和的自主統一運動を推進するための啓蒙紙を目指した。
元心昌氏は両新聞時代、支柱の役割を果たしてきた。創刊時には代表委員だったが、元氏が最も長い間引き受けた肩書は、代表常任顧問だった。
しかし、平和統一運動を日本で展開していくことは苦難の連続だった。特に問題となっていたのは財政難だ。新聞を刷るための印刷費が不足したことは、一度や二度ではなかった。輪転機を回しながら金を借りに行ったこともあったという。共同創刊者の李栄根氏は、その時期を次のように述懐した。
「権力者からの迫害は過酷だった。時代の傾向にへつらう周囲の人々の目は冷たく、妨害も深刻だった。新聞の創刊号から、印刷途中に代金調達に飛び回らなければならないなど、苦難のなかで発足した私たちの運動だった。日々耐え難い苦闘の連続だった。私自身、仕事に行くたび、(仕事を)放り投げてしまおうとどれだけ考えたか分からない」(李栄根、1971年8月18日付3面)
統一朝鮮新聞時代の同僚の裵鍾翊氏も、「李承晩政権末期頃、新聞社の財政は極めて厳しく、三度の食事も難しい時期だった」(1971年9月8日付4面)と回顧する。
しかし、食事もまともに取れないなかで新聞を出していた同志たちを励まし支えた人物がまさに元心昌氏だった。李栄根氏は、「(元心昌)先生が焼き鳥を置いて酒を勧めながら、『より困難な時代も勝ち抜いてきた私たちではないか』と激励した」とし、裵鍾翊氏は、「先生の家によく招待されておもてなしを受けた。下着やシャツを買ってもらい、また、破れた服を直して洗濯もしてくれた」と告白した。
いくら困窮した状況に追い込まれても、言論活動は休むことなく続いた。さらに、報道機関事業をさらに拡大していった。日本国内での新聞発刊にとどまらず、1961年から約7年間は英字誌、『月刊ワンコリア(ONE KOREA)』を発刊した。また、1964年10月からは『統一朝鮮年鑑』を計3冊発刊した。今日の視点でも南北統一の正当性を、世界の人々を対象に広報していたことは驚くべき事実だ。
『統一朝鮮年鑑』は統一問題の経過と統一運動史、統一の実現方法、そして統一後の国家像など、多方面での理論と実践方案を網羅した統一百科事典だった。統一の必要性と意義、原則、方法までを体系的に整理した最初の出版物として、歴史的意義を見出すことができる。
元心昌氏をはじめとする統一日報のリーダーたちは、統一を成し遂げるには理論的基盤構築に加え、実践的な統一運動が伴わなければならないという信念を持っていた。そのためには多くの人の参加と結束が必要だ。
その結果、大きく三つの組織が誕生した。最も初めにスタートした組織は、1965年7月15日創設した汎在日同胞統一運動組織体「韓国、民族自主統一同盟日本本部(韓民自統)」だった。続いて1966年8月28日に結成したのが、在日同胞青年学生組織「韓国、民族自主統一青年同盟(韓民自青)」、そして同年に創設した統一運動幹部養成教育機関が「統一学院」である。
(つづく)


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