韓国史を彩る王たちの物語56 広開土王4

石碑の内容と改竄説
日付: 2016年11月16日 09時42分

 高句麗全盛期の礎を築いた広開土王が在位21年、39歳の若さで逝去。本名は談徳といい、永楽大王・国岡上広開土境平安好太王(略して広開土王・好太王)などと言うが、王位に就くやいなや一進一退を続けていた百済との戦いに4万の大軍を率いて攻撃し、石〓城をはじめ10カ所の城を落とし難攻不落と言われていた関彌城をも陥落し、百済との国境地帯に7つの城を築き国勢を誇示した。
一方、平和外交も積極的に展開する。新羅とは平和交流を深め、倭寇が新羅に侵攻して来たとき、新羅に援軍を送り倭寇を撃退した。中国の後燕とも平和交流と戦を繰り返して国勢を高めていった。王位を継いだ長壽王はAD414年、王陵の近くに父王の功績を讃えた高さ6・3メートル、幅1・5メートルの長方形の石碑を建てた。それを広開土王陵碑という。
碑文は石碑の4面に1802字の漢文で刻まれ、内容は三段からなっている。一段目は朱蒙による高句麗の建国神話、二段目は広開土王の功績、三段目は広開土王陵の維持管理が刻まれているが、それらはこの連載で折々触れてきた。
陵碑は1880年、集安市の中国の農民により発見され、その翌年拓本が取られた。1884年、日本の陸軍歩兵太尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料のなかに拓本が含まれていた。それを酒匂本という。
それを解読したのは青江秀と横井忠直という文官であり、その解読から任那などの日本古代史に点在する問題を知る資料として脚光を浴び、拓本は当時の宮内省に献上され、伽羅・加耶に任那日本府があったという日本の古代史に出てくる任那府の存在を裏付ける資料として使われた。古代日本が韓国に任那という日本府を置き、古代韓国を支配していたという論拠に仕立てられた。碑文からそのように断定することは難しいが、任那という文字が刻まれていることは否めない。
1972年、在日の考古学者李進熙が「好太王碑の謎 日本古代史を書きかえる」という論文で、拓本は日本の軍部で変造、書き換えられたという改竄説を発表し、日本・韓国・北朝鮮で大きな話題になり、論争が続いた。2005年、酒匂本の以前に取られた拓本が中国で発見され、それは酒匂本と変わらないことが判明し、李進熙の改竄説は否定され、碑文を巡る歴史摩擦は収まった。
私は現地で携帯用のルーペを用いて碑文をみたが、読み取れる文字はわずかしかなかった。その後、碑文を保護するためにガラスで囲っている。李進熙は現地に一度も行かずに、改竄説を唱え歴史摩擦を起こしたが、現地調査をしていればそのような歴史摩擦は生まれなかったに違いない。
(キム・ヤンギ 比較文化学者)


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