韓国史を彩る王たちの物語55 広開土王3

高句麗は少数民族か
日付: 2016年10月19日 00時00分

 高句麗全盛期の礎を築いた広開土王時代の王都は国内城(クックネソン・現在の中国吉林省集安)にあり、広開土王陵のすぐ近くに広開土王の功績を記した石碑が建っている。広開土王の後を継いだ王子の長壽王が高句麗の全盛期を築き、父王の業績を讃える石碑を建てた。
わたしは1991年に初めて国内城に行ったが、鴨緑江の中流にあり鴨緑江の向こう岸に北韓(北朝鮮)が領土が肉眼で見えた。川岸の近くにある国内城の遺跡は静かに古風を留めていた。その実景を見るまで、わたしは高句麗王都の国内城が現在中国領にあることを知識としては知っていたが実感しては居なかったのである。わたしはデスクワークで知った文化や歴史の遺跡を歩くフィールドワークが好きで、何時しかそこから歴史や文化史の原初的な姿に迫っていた。
話しはすこし飛ぶが、国内城の遺跡踏査を終えた直後、瀋陽国立博物館に向かった。博物館の展示物の解説で「少数民族高句麗族」という単語に出合い首を傾げたシーンを忘れること出来ない。それほど強いショックを受けた。高句麗の文化が展示されているコーナの解説にそう書かれていた。高句麗は中国の少数民族として解説されていたのである。
そのときの踏査の道案内をしてくれた、中国の少数民族である若い朝鮮族にその理由を聞いてみた。彼はそれは当たり前のことで考えたこともないと言い、それは歴史学者に聞くしか無いと応えた。博物館の職員に聞いて見ると、わたしの質問の意味が通じなかった。そこで瀋陽に滞在中、朝鮮族の歴史学者に聞いて見ることにした。韓国・朝鮮史では高句麗を三国時代の一国を指しているが中国ではなぜ少数民族高句麗族なのかと聞くと、「それは中国政府に聞いて欲しい。わたし達には応えられません」といって笑った。
それと同じ問題が他にもある。韓国・朝鮮史では渤海は高句麗の遺民が起こした国であると教え教わっていたのに、中国ではそれには耳を貸さず、中国の少数民族が建てた国であると主張して譲らなかった。現在も中国の主張は変わらない。
かつての巨大国である中国の元はモンゴル族の、清国はツングース族が主導した国であったように後に主導する民族集団が代わり、いまでは少数民族の一つになっている。それと韓国の歴史時代の盛衰を同じパターンで見るには無理がある。かつての覇者元のモンゴル族も清のツングース族も少数民族なのである。
(キム・ヤンギ 比較文化学者)


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