金日成はソ連軍将校として1949年9月に北韓入りしてから南侵戦争の準備を着実に進めてきた。彼は「我々は結局、血を流さねばならない」と、口癖のように言っていた。北韓は1946年8月10日、主要産業を国有化。日本軍が北韓全域に建設した軍需工場(陸軍工廠など)も含まれた。
金日成は46年、武器生産のため「砲兵技術訓練所」という技術者養成所を設立した。平壌郊外の平川に銃と弾薬生産工場を建設し、1947年9月、短機関銃と拳銃生産を指示した。1948年12月には短機関銃の試射行事が行われ、金日成は迫撃砲や手榴弾、銃弾と砲弾などの生産工場建設を指示した。1949年2月に平川工場は「第65号工場」として拡張され、北は戦争前に小火器や弾薬などを自前調達する体制を整えた。
1946年に保安幹部学校として出帆した軍隊は、1948年2月8日に正式に朝鮮人民軍として創設された。当時の人口は南韓が2200万、北韓が900万人ほどだったが、軍隊は6・25南侵直前に南韓9万5000人、北韓18万人となっていた。1948年12月、モスクワで開かれたソ・中・北韓の3国戦略会議で、朝鮮人民軍を18カ月以内にソ連軍と同等の強さにすることが決まった。これを監督するソ連特別軍事使節団が平壌に派遣された。
ソ連製武器はウラジオストクから商船で羅津、清津、元山港に輸送された。あるいは満州鉄道を利用して南陽(咸北)や新義州に運ばれるか、ウラジオストクから鉄道で持ち込まれた。T‐34戦車は、韓国の地形や韓国軍の対戦車装備の貧弱さを考慮し、当初の計画(500両)から242両に減らされた。1945年末、現代戦の技術訓練のためソ連に留学させていた1000人が3年間の教育を終えて帰国した。彼らは戦車連隊の基幹要員として配置された。1949年5月、人民軍105戦車旅団が増員された。軍事幹部も1950年4月から6月初めまで、ソ連から2000人以上、中国から800人あまりが入北した。航空機は開戦間近の6月18日、IL‐28型爆撃機60機をソ連パイロットたちが連浦飛行場まで操縦してきて引き渡した。
北側は1950年3月末、金尚昊部隊、金武顯部隊と命名されたゲリラ700人余りを南派させ、太白山・日月山・国望峰・俗離山・徳裕山・智異山・白雲山を結ぶ線を確保し、南韓の後方地域を両分する作戦に出た。これは10回にわたるゲリラ浸透(約5200人)の中でも最大規模で、開戦まで南韓内に潜伏して南侵部隊と連携作戦する任務を帯びてきたが、国軍8師団討伐隊と警察によってほとんど射殺された。
国軍はパルチザン討伐のため、8個師団のうち3個師団を後方地域に分散配置した。戦争勃発時点では、国軍の61個の歩兵大隊のうち38度線の陣地に展開されたのは11個にすぎず、25個大隊は予備隊としてソウル・原州・三陟の間に、残る25個大隊はゲリラ討伐作戦に投入されていた。
1950年の春、ワシーリエフ大将、ポストニコフ少将、マルチェンコ少将など南侵に備えた作戦専門家が顧問団と交替された。ワシーリエフらは3月11日、金日成、姜健、金策など北韓首脳部と秘密会談を開いた。金日成は南侵戦争のための作戦計画書の作成をソ連顧問団に依頼した。総参謀長の姜健はポストニコフからロシア語で作成された南侵作戦計画をもらった。作戦計画はソ連2世の韓人たちによって5月末までに翻訳が完了したものだ。(つづく)