在日の英雄 義士 元心昌32

統協「北韓の平和統一論は、可変戦術にすぎない」
日付: 2016年10月05日 00時00分

 統協(南北統一促進協議会)が結成された1955年は6・25戦争直後でありながら、8・15解放10周年を迎える年であった。元心昌氏をはじめとする統協メンバーは統一運動を分断体制の現状を変える転機にしようと考えた。同年6月25日の「6・25記念平和祭」を、3・1節行事のように全国レベルの行事として執り行おうとしたこともそのためだった。しかし思い通りに実行されなかった。民団と朝鮮総連が6・25行事への参加をボイコットし、参加者が十分に集まらなかったのだ。平和的な集会をとおしてこれ以上の戦争はいけないということを、広く知らしめようとした試みは水泡に帰した。
統協は希望の手綱を離さなかった。8・15行事での再起を狙ったのだ。民団と朝鮮総連に3者共同で汎民族的な在日同胞合同集会を開こうと提案した。しかし今回も、両方とも参加しなかった。朝鮮総連ははじめから遠慮なく妨害工作を行った。
「統協はやむを得ず左右系の著名人を招待形式で招請し、8・15解放10周年記念の祝い行事(東京都文京区小石川)に変更しなければならなかった」(本紙1971年8月11日。金泰林氏寄稿)
この時から統協は朝鮮総連との全面対決に突入する。先攻に出た朝鮮総連は猛攻を浴びせた。朝鮮総連は統協を「第3勢力」と規定して、「敵を明確にしていない一部の有名人グループ」としながら日常的に誹謗活動を続けた。朝鮮総連はまた9月24日から26日にかけて中央委員会を開催し、統協問題を議題にあげ次のような事項を公表した。
はじめに、「統協」は、組織体を持ってはならない。二番目に、「統協」の「第3勢力」的傾向は排除されなければならない。三番目に、在日同胞の統一行動において「統協」幹部などの有名人への接触は第2の敵事業だ。
朝鮮総連議長の韓徳銖は渋谷支部結成大会などで統協は相手にする必要がないと公言し、朝鮮総連幹部は、「(意識が)遅れている大衆のために、先進分子である総連団員を動員してはいけない」という独善的態度をみせた。
朝鮮総連は「統協」の第1回全体協議会を皮切りに同年6月から統協が推進した集会と会議を全面ボイコットした。下部組織員を動員して露骨に妨害活動を展開した。これに対して当時統協に参加したある民団地方本部の副議長は、「朝鮮総連は北韓の(対日)基地拡張運動を統一運動と勘違いしている」と批判した。
朝鮮総連がこのように反統協を決めた理由は、統協が脱理念を目指した民族組織であったためだ。左右を区分しない挙族的団体の存在を認めることができなかったのだ。この他にも朝鮮総連が反統協の口実にしたポイントとしては、統協が米国と李承晩政府を敵と規定していないこと、民団系と統一運動をともにしようとしたこと、駐日韓国代表部と接点があること、などがあった。
統協は朝鮮総連のこのような行動を見過ごさなかった。直ちに反論した。当時、機関紙『総親和』の紙面を通じて指摘した朝鮮総連批判の核心を要約すると次のとおりだ。
「朝鮮総連の平和統一の主張は観念的論拠に基づくことだ。最終的には(北朝鮮政権が追求する)人民共和国の旗印のもとに、国土を完成させようとすることだ。これは、大韓民国の北進統一論と本質的に違わない。統協に向けられた一連の(非難)言動は平和統一のための協議を、可変的な戦術でしかみていないという証拠だ。統一運動は決して総連の専売特許ではない。私たちは彼らの誤った方針に盲従するほど遅れていない。今後も統協は宣言と綱領に基づいて、平和的統一独立に向かって前進するだろう」
統協が北韓、朝鮮総連に向けた指摘は鋭かった。それから60年が過ぎた現在に置き換えても北韓の本心が少しも変わっていないことに驚くと同時に、その底意を統協が洞察していた事実に驚かされる。特に統協が北韓と朝鮮総連の平和統一論声明を「可変的な戦術」と定義している部分や、彼らの「人共旗のもと、国土を完成する」という論理を、平和で偽装した武力統一志向であると見抜く部分は的を射た分析といえる。
しかし残念なことに、統協の寿命は短かった。分断以来初の統一運動体であった統一協議会。大衆の期待を一身に集めたが、発足1年を持たずして幕を下ろしてしまう。挫折の直接的な原因は統協が運動を展開しながらも確固たる組織体制と基盤を備えていなかったためだ。言い換えれば既成組織の民団、朝鮮総連の影響から抜け出すことができず、独自の勢力を構築することができなかったためだ。
「私たちは過去8カ月間統一運動を推進してきたが、事実上組織を持たないことにより運動全体が低迷して発展できなかった。このように、自己批判することが正しいという結論に達した。従来の謙遜と辭讓により運動を遅延させたことに、責任を痛感する。(中略)私たちは客観的に間違っていることや、反対する者に対しては大胆に指摘や批判をして正しい方向に進むだろう。全てのことは大衆の審判にかかっている」(総親和第17号、1955年10月11日付)
しかし既に手遅れであった。離脱者などが続出して民団や朝鮮総連に渡って行った。同胞社会の時流がそうであった。組織を再整備して分散した力を集める余暇さえないくらい急迫した時流の変化であった。元心昌氏は最後まで残り、「統一運動が民族社会の発展を図る変革運動」と唱えていたという。しかし元氏の信念は、勢力を優先視する世態の障壁を乗り越えることができなかった。
統協の活動が事実上停止状態に入った時点は1955年11月末頃だ。機関紙『総親和』の最終号はその年の11月12日付第18号であった。最後まで統協に残り統一運動を支えた人物は、元心昌、裴正、全海建、李北満などに過ぎなかった。統協の挫折は、いくら正しくて先覚者的な課業であっても勢力化、大衆化につながることができなければ失敗するという辛い教訓を残した。     (つづく)


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