平壌側は6月10日、政治的偽装戦術として、南労党の大物で死刑が言い渡されていた金三龍・南労党総責、李舟河・同政治局員と、曺晩植父子を交換しようと提案してきた。二人が3月に逮捕されて以来、南労党は事実上瓦解状態だった。李承晩政府は6月16日、北側の提案を受け入れたが、北側は交換日を一方的に延期して6・25南侵を開始した。
李承晩政府は政治的混乱の中でも、国家建設の努力を中断しなかった。李承晩政府は、多くの抵抗を克服して3月10日に農地改革法を公布。改革を断行した。この直後に起きる6・25南侵で農地改革は不完全なものになるが、まさにこの農地改革と南労党指導部(金三龍と李舟河)逮捕は、一部国軍の反乱事件を契機に行われた粛軍作業とともに、共産軍の奇襲南侵の後も、南韓で革命が起きなかった決定的な理由となった。
共産側の南侵が切迫していたが、米国と米軍指導部は、韓国の防衛に消極的だった。だがトルーマンは、南侵の報告を受け、直ちに米軍の参戦と南侵阻止を命じた。一体米国は世界情勢とソ連をどう見ていて迅速に参戦を決めたのか。
NSC‐68という有名な文書がある。スターリンの膨張主義によって、ヨーロッパはもちろん中国大陸まで赤化された1949~50年の間に立案されたホワイトハウス安保会議(National Security Council)の戦略文書だ。起草したのは当時国務省政策企画室長のポール・ニッツ。アチソン国務長官の後援を受け作成され、トルーマンが署名して米国の対ソ基本戦略として採択されたこの文書は、その後の冷戦戦略と歴代米大統領の思考に大きな影響を及ぼした。「NSC‐68のお陰で米国は東西冷戦に勝った」といわれるほどだ。
この文書の作成時、トルーマンは軍備を削減し、国内福祉分野への投資を増やそうとしていた。ポール・ニッツはNSC‐68で、ソ連を西欧文明を破壊する悪の勢力と断定し、対ソ封鎖論を主張し軍備増強を要求した。トルーマンは1950年4月7日、この文書に署名はしたものの、軍備増強の建議には冷淡だった。
ところが2カ月後、6・25南侵が起きた。ソ連の膨張主義を予言したポール・ニッツの分析は的中した。トルーマンは直ちに次の会計年度の国防予算を3倍に増やすよう指示した。NSC‐68と韓国戦争が、米国の本格的な冷戦態勢を整えたと評価されている。東西冷戦は韓半島で始まり、韓半島の統一はその冷戦を最終的に終息させる。
NSC‐68は冒頭で、ソ連共産主義は西欧文明と両立できない非文明的、非西欧的、非キリスト教的、反個人主義的な異端勢力だと強調する。レーガン大統領がソ連を悪の帝国と呼んだ根拠がここにある。ポール・ニッツは、ソ連の侵略路線から守るべき価値を個人主義と自由に置いた。
自由社会は個人を手段ではなく目的と見る。個人の自律と自重さえあれば、個人間の権利は衝突せず共存でき、この自由思想から驚くほどの多様性と深い寛容、そして法治の伝統が生まれる。これが自由社会の統合性と活力を生む。
NSC‐68は、共産主義者が好んで使う「平和」を欺瞞だと断定した。ポール・ニッツは軍事力を盾、人権を槍と解釈。軍事力を増強してソ連の侵略を阻止した後、自由世界の強みである人権と自由を武器にして、全体主義の反人間性を暴露することによって敵の内部で分裂が起こるようにすれば勝つと言っている。 (つづく)