大韓民国の建国史(43)

軍の対戦車防壁要求 予算の都合で霧散
日付: 2016年09月28日 22時16分

 明確な情報があっても、米国は南侵を阻止する行動をとらなかった。後に国連軍司令官として韓国で戦ったマシュー・リッジウェイ将軍は、「高価な血の代価を払わせたのは、北韓軍の高い戦闘能力を正しく評価しなかったことにあったと私は信じる。戦争が始まるや、総司令部は毎日、侵略者を阻止するのに必要な兵力数を増やさねばならなかった。われわれは敵の戦力を正しく評価できなかった」と嘆いた。本当にそうだったのか。
韓国戦争当時CIA局長だったヒレンケッター提督は、北韓の奇襲南侵を予測できなかった責任を負って退いた。だが、韓国軍と米情報機関は北韓の南侵を予測していた。6・25南侵3カ月前の1950年3月、陸軍本部は「陸本防衛計画第38号」を完成させた。作戦局長の姜文奉大領が作成したこの計画は、北韓に先攻されることを前提とした防御戦略だった。その内容は北韓の南侵をほぼ確実に予想していたことを示している。
軍は「6月危機説」を警告し、38度線の全防御線上の作戦要衝に築城、特に対戦車防御のための半永久的なコンクリート防壁の構築を要求した。そして、38度線の主抵抗線が崩れる場合に備え、第2防衛線として西の臨津江、ソウル北方の議政府、中央の昭陽江、東海岸の連谷川などの防御線強化を強調した。「北傀軍」の予想侵攻路として甕津半島、開城、東豆川、抱川、洪川、注文津などを適示し、「北傀軍」はソウルを目指して西に主攻を、中部と東海岸で陽動作戦を展開すると予測した。
陸軍は政府に「どんなことがあっても敵の予想侵攻路に防御の塹壕を深く構築し、対戦車防壁をコンクリートで作らねばならない」と要請した。だが、この要求は予算上の理由で実行されず、6・25開戦初期に北韓軍戦車の攻撃になすすべもなくやられる。
丁一権陸軍参謀次長(当時)は、満州軍時代にノモンハン戦闘でソ連軍の戦車の威力を体験していた。近接戦に強い日本軍も戦車の前ではお手上げだった。丁一権は対戦車障害物工事が困難な場合に備えて米軍事顧問団に対戦車地雷を要請したが、米側は「軍事支援予算に含まれていない」と断った。
3カ月後、北韓軍は「陸本防御計画第38号」が予測したとおり侵攻してきた。計画が半分でも実行されていたら、開戦4日でソウルを失うほど凄惨な後退はなかったと丁一権は嘆いた。
申性模国防長官は5月10日、中共軍2個師団が北韓に到着したと外国特派員に発表した。2日後、李承晩は記者会見で、「北韓軍が日本や中国を侵略するため38度線に集結するとは思わない。ロバーツ将軍とムーチョ大使は韓国のため、もっと多くの武器を提供しようと努力した。だが、米国国民は夢ばかり見ている」と言った。
南韓は政治的にも混乱が続いていた。制憲議会に浸透した南労党による「国会フラクション事件」で逮捕された金若水など13人が2審係留中の5月30日、第2代国会議員総選挙が実施された。結果は総議席210席中、李承晩支持勢力は24議席、中道無所属が125席だった。
金日成は6月7日、スターリンの指図どおり「祖国統一民主主義戦線」という幽霊団体を立てて、8月5日から8日の間に南北総選挙を実施し、8月15日に統一立法会議をソウルで開催しようという平和提案をした。北韓軍は6月10日、旅団長以上の指揮官を招集して作戦会議を開き、6月23日まで攻撃準備位置に移動するよう命令した。(つづく)


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