朝総連衰亡史(13)

「革命」という名の「お遊び」
日付: 2016年09月14日 09時39分

 『在日の精神史』筆者のY教授は、彼自身が密航船(工作船)で北韓へ行くことになった過程を率直に記録している。彼が記録した経験は、韓国当局が検挙して、裁判にかけた数多くの在日工作員の陳述や、彼らの典型的な行動と完全に一致している。Y教授が自らこの告白をするまで、おそらく日本内の韓半島専門家の学者たちが誰も予想できなかったこの記録を見ると、朝総連の膨大な「工作インフラ」と北側の対南工作のパターンが改めてわかる。朝総連の無差別的な対南工作が、世間知らずの若者たちの人生をどれほど広範に破綻せたのか。以下の告白から恐ろしい実態がわかる。

私を担当したのは、最初の「指導員」は別にして、「お兄さん」、そして民戦時代からの活動家だという「おじさん」である。「おじさん」は主として言論畑の「閑職」を歩いたようであるが、労働者上がりの風体をしたインテリで、その実、長らく対南工作に携わった人のようであった。
その後、ある時点で、私は「線」の最上部が総連第1副議長の金炳植であることを知った。最初はもちろん、「線」の最上部が誰だかは知らなかった。いわゆる「金炳植事件」(本書第2冊第3章参照)もかなりあとで知っただけである。金炳植には二回会ったことがある。いちどは箱根の最高級の旅館の離れ座敷で、もう一度は東京・目白駅近くのこぢんまりした日本旅館の一室で。いずれの時も、当時高価であったメロンを、一人パクパク食べていたのを覚えている。ロイド眼鏡の奥に、眼光鋭い冷徹さを漂わせているようで、清廉さと結びつく革命家というイメージはまったくなかった。政治家ないし官僚、あるいはやり手の商売人といった感じであった。箱根で会ったときは、ひとりの若者を「革命家」に仕立てて、南に送っているのだと、得意満面の表情であった。(中略)
結局、私は最後まで具体的な「任務」を指示されたことはなかった。それ以前に私が躊躇し、迷ったからであろうか。その間、いちど密航船に乗って北に行ってきた。博士課程に進学したあとの一九七一年春だったと思う。約一ヵ月。たぶん秋田の海岸からだったと思うが、夜中に迎えの船にひとりで乗り、帰りもひとりであった。船員(工作員)は二人、よく訓練されている感じだった。(中略)秋田で会った案内人は、か細い感じの私と同年代のインテリ。朝鮮大学校卒だと言っていた。
船は一昼夜をかけて元山に着いた。船底は冷たかった。早朝、港で働く労働者の「虚ろな目」と視線が会い、その時点で、ひと筋の希望が砕かれ、「祖国」に対して絶望的な気持ちになった。一九六〇年代の帰国者が「港に着いた瞬間に分かった」というが、それと同じだったかも知れない。ピョンヤンの「招待所」に入り、毎日学習し、映画を見て、そして「軍事訓練」を受けた。自動小銃、手榴弾、乱数表などであるが、「訓練」とはいってもほんの真似事程度、「通過儀礼」とも言うべきもの。実戦にはまったく役に立たないものだった。弾丸一個は鶏一羽分の値打ちだ、と言われたことを覚えている。ある夜、労働党書記で対南工作の総責任者と言われていた金仲麟と会食をした。何を話したかは覚えていないが、たぶん南朝鮮情勢と首領への忠誠などについてであったろう。(中略)
「線」で接触した人は、(中略)「指導員」も含めて少壮幹部だったと言うべきか、その後、総連組織内で栄進していったようである。私が理解するかぎり、ひとりは総連中央の政治局副局長をへて朝鮮大学校の副学長になっている。たぶん対南工作で優秀な成績を収めたのであろう。もうひとりは中央学院副院長(院長は韓徳銖)から最終的には総連の副議長になっている。四五年という時の経過からするとき、みな、いまは故人になったものと思う。
いずれにしろ、地下組織に入ったことは私の人生を狂わせた。私はそれを避けるだけの予備知識も、友人関係もなかった。まったく世間知らずであったが、それでも、その時は、私は「主体的」に生きていると信じていた。もとより、本で勉強しただけでは「革命」はできないはずだろうに。それより、いまでは、「指導員」などの、自分が信じる「大義」を世間知らずの若者に強要し、人間を押しつぶしてしまうのは卑劣きわまりない行為であった、と思っている。自称「革命家」とは、往々にして「卑怯者」である。(『在日の精神史3』118~120ページから)。
(つづく)


閉じる