国内外初 統一運動体「統協」結成
民団と民戦の間の組織闘争が加熱すればするほど、同胞社会の分裂は日々激しくなっていった。同胞社会の至る所で、昨日までの同志が翌日には敵になってしまう事態が起きた。故郷の友人同士が互いに義絶し、血を分けた親戚間の往来が絶たれる悲劇も起きた。たとえば叔父が所属する組織の視線を気にし、甥の結婚式に行くことを諦め、その結果兄弟姉妹が絶縁してしまうこともあった。
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元心昌氏の遺品から見つかった「南北統一運動準備委員会」名簿 |
元心昌氏は理念と思想が異なるという理由で、人倫と道徳まで失われてしまうことは「愚かなこと」であるとの認識が強かった。血を分けた同族同士が、平気で互いを傷つけ合うことは間違っているとみていた。元氏の統一運動の同志である全海建氏は1971年9月8日、統一朝鮮新聞への寄稿で、当時の元氏のスピーチを次のように証言した。
「(人が)生きていれば互いの感情が傷つき、付き合いが途切れることもあります。しかし、子どもが路上で危険に直面した姿を見かけても見ぬふりをして、隣の家の洗濯物が豚に踏みつけられ汚されるのをみても知らぬふりをして良いのでしょうか」
元心昌氏は1953年の休戦協定締結の頃には民団指導部の一線から退き、顧問役を務めていた。そして1954年秋からは民団と民戦、また中立的な立場の人々のもとを尋ね歩いて、分断された祖国を一つにする、いわゆる「南北統一運動」を展開しようと提案した。その年11月30日、南北統一促進準備会の集いを持ったのに続き、12月16日には東京の日比谷公会堂で会合を持ち「南北統一運動準備委員会」を結成した。委員会には合計32人が参加した。このなかで代表委員は元氏をはじめとする11人であった。
代表委員を系列で区分すると、民団系としては元心昌氏と権逸氏、白武氏、鄭寅学氏などが、民戦系では南浩栄氏、李北満氏などが名を連ねた。代表委員には日帝時代に議員まで務めた親日派の象徴的人物に挙げられた朴春琴氏と、中立系の金三奎氏も参加した。 この日彼らは、「私たちは祖国の統一独立を熱望している」で始める宣言文を採択し、そのなかに3つの統一方策を提案した。
「第1に、祖国の統一独立を実現するために民族の大局に立って私たち自身大同団結すること」
「第2に、統一中央政府は、南北の自由総選挙によって樹立すること」
「第3に、自由総選挙と祖国の統一独立は国際的に保障すること」
後日、朝総連系と日本人研究者は論文で彼らが命名した「祖国」という用語を「朝鮮」に変えて記録した。「朝鮮」であれば、北韓政権が樹立した自称国名と同じことになる。したがってこれらの研究者の用語変更は故意的に操作したと疑われる。
元心昌氏らは5つの項目の綱領に、前述した3つの統一方策に加えて「同胞が犯した過去の過ちを互いに寛容な心をもって反省し、民族的総親和を模索する」、「どのような団体、政党、個人、思想、信仰を問わず、互いに協議して祖国の建設と民族の諸般問題を平和的に解決しよう」という内容を盛り込んだ。
その年の12月23日夕方、東京・品川の韓国料理店「万寿山」。統一運動家たちが忘年会を兼ねた懇談会を開催した。30人余りであった各界要人が、この日には百数十人に増えていたと伝えられている。1960―70年代、在日同胞の統一運動青年組織である「韓民自青」組織部の金泰林氏はこの日の集いを、「統一運動の具体的な出発点になった」と評価した。
忘年会に続いて新年の1955年1月10日。東京・神田一ツ橋の「如水会館」で、左右合同の新年会が開催された。そして1月30日、「南北統一促進協議会(統協)」の発起人大会が開かれた。同胞社会の38度線をなくそうというキャンペーンがついに実を結んだのである。
(つづく)