国の主人たる国民を作ろう

日付: 2016年08月15日 08時01分

 建国68年の大韓民国が総体的難局に陥った。社会的葛藤と摩擦が拡大する中で、経済は成長動力をほぼ失った。国民と政府は対立し、国会は行政府を麻痺させ、司法は国民の信頼を失った。
何よりも安保が危機的状況だ。北韓の核ミサイル攻撃を防御するためのTHAAD配置にさえも少なからぬ国民が反対している。敵味方の区別もできない状況の韓国人を見ると、洗脳された人間、つまり毛沢東の権力闘争に利用された紅衛兵を想起させる。
朴槿惠大統領が内外の批判を無視して進めてきた親中路線は破綻した。中国共産党は明や清以上に宗主国として韓国の上に君臨しようとしている。中共の「中華覇権主義」ないし野蛮な軍国主義の正体が明らかになったにもかかわらず、目前の利益にばかり執着する韓国人の中に、中国に対する事大主義の亡霊が蘇りつつあるのを見る。
大韓民国は封建的価値・秩序を否定し、共和制革命をなした国だ。李承晩建国大統領を中心に共産党全体主義独裁を拒否し、スターリンと金日成と毛沢東の侵略に対抗し、米国など自由世界の支援を得て、血を流しながら自由と独立を守り抜いた国だ。であるのに自分が主権者であるという意識がなく、迷信と扇動に踊らされるのは、精神的に未熟であるか、奴隷根性が身に染みているためだ。
大韓民国は開放社会である海洋文明の中で成功を収めた。ところが、この建国革命の理念やその遺産に対する国民的自覚は極めて薄い。そして、従北勢力と親中事大主義勢力は大韓民国の文明史的成功を否定している。
なぜこのようになったのか。それは去る68年間、大韓民国という国は建てられたものの、その主人である国民が十分に作られていないためだ。国はあるのに、その主人がいないということだ。国家や共同体の興亡は、その国家や共同体の主人たる個々人の知的・道徳的水準と姿勢にかかっている。
今、大韓民国は共和制と法治の危機に瀕している。国民は憲法を守らず、建国の理念を盛り込んだ憲法を守り抜ける国民が足りない。健全な市民や教養のある個人をまともに育てられない共同体に、危機が来るのは当然のことだ。
先進文明は、個人の自由をその出発点とする。「首領独裁」の北韓と共産党独裁の中国は、個人の自由と尊厳を根源的に否定している。そのような体制が大韓民国を脅かし、強迫しているのに、これに憤慨するどころか、中国に事大する者は大韓民国国民の資格がない。
さらに憂慮されるのは、これらの勢力が国会を掌握して憲法改正を試みようとしていることだ。大韓民国に挑戦する勢力、大韓民国が志向する価値や個人の自由を否定する敵からわれわれの生き方を守ることは、主権者であるわれわれの責任であり義務だ。
敵との内通まではばからない勢力が、自由民主と自由市場経済を破壊するのを放置するわけにはいかない。自分の自由と独立も守れない者が他人や国際社会の自由と安全を守れるだろうか。
大韓民国の建国理念と国家目標とは、自由を犠牲にしてでも腹いっぱい食べることだったのか。奴隷だって腹一杯食べることはできる。卑怯さを現実的だの実用主義だのとすり替えて教える国に未来はない。
文明史的な観点から大韓民国が目指す方向、追求すべき目標は自明だ。われわれには、自らの生存と尊厳を守り、同族である北韓住民を解放させる義務がある。
これと関連して在日韓国人に警告したい。金氏王朝を支持するように教え、首領のための革命戦士を養成する朝総連系の学校を「民族学校」と呼び、韓国語を学ぶことができるという名分で子どもたちを入れることも、北韓解放を妨害する行為だ。血の汗と苦難の対価として得た自由を独裁者に捧げるように教育することを「民族教育」と呼べるだろうか。
人間は言語を通して思考する。言葉は習慣となり運命を決定する。なぜ自由を語らず「平和」ばかり唱えるのか。「奴隷としての平和」も平和なのか。
今、大韓民国の当面の課題は、金正恩と中国の挑戦に負けないように力を持つことだ。大韓民国は、李成桂が明から「国名」を授かった「朝鮮」ではない。すべての危機は、危機に見せかけた機会でもある。
スターリンがモスクワで国名として作って贈った「朝鮮民主主義人民共和国」という封建王朝を解体すること、その後見人である中国共産党の挑戦を退けることこそ、大韓民国が生き、跳躍する道だ。偉大な国々は、大きな難関と危機を克服している。イスラエルをはじめ、都市国家でもできたことが、最強の同盟を持つ大韓民国にどうしてできないだろうか。


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