韓国史を彩る王たちの物語53 三国時代(高句麗・百済・新羅)の実在した王 (8)

騎馬民が主体となった高句麗
日付: 2016年07月27日 22時51分

 392年故国壌王が崩御し、王位は375年生まれの太子が第19代の王位を継ぎ、広開土王の時代を迎える。太子は生まれながらにして体格と独立心が強かったと記されている(『三国史記』)。
即位した翌年の393(広開土王2)年7月、南側に隣接している百済を攻略し石峴392年故国壌王が崩御し、王位は375年生まれの太子が第19代の王位を継ぎ、広開土王の時代を迎える。太子は生まれながらにして体格と独立心が強かったと記されている(『三国史記』)。
即位した翌年の393(広開土王2)年7月、南側に隣接している百済を攻略し石峴など10個の城を陥落した。百済の辰期王はその勢いに押されて迎撃する勢いも気力もなく、高句麗の勢いに押された新羅も多数の人質を差し出した。9月には北の契丹を攻め500人の契丹人を捕らえ、契丹に捕らえられていた高句麗人1万人を連れ戻した。10月には王自ら百済の海水に囲われた難攻不落の関弥城を7つの方面から攻略し、20日目に落とした。
高句麗は騎馬民が主体となった国であり水軍とは縁の薄い国のように思われているが、王自ら海水に囲まれた関弥城を陥落したことからも海戦に弱いとは言い切れない。そもそも高句麗は鴨緑江の北側つまり現在の中国領になっている集安界隈に城を築き、鴨緑江や豆満江を越えない限り韓半島には渡れない地勢に国を興している。つまり河水や川をそれほど気にしていなかったと言ってよい。
わたしは1989年、中国領土から白頭山の頂上に登ったが、頂上に登る前に白頭山の頂にある天池に初めて登ったが、天池に登る道は中国領土であり、天池の半分が中国領土であることをその時初めて知った。わたしは幼いときから白頭山も天池も韓国の領土であると大人たちから教わっていたので、その現実を信じるのに時間がかかった。
その帰路旧式の中国の遊覧船に乗って豆満江を遊覧しながら古代の国境線を想像していた。そのとき船人が、川の真ん中が国境線でありいまわたしたちは北朝鮮領土の上を遊覧しているが、一歩でも陸に上がったらどこからか北朝鮮兵が現れて捕まるので上陸はしないと言った。川だから見逃しているというのである。高句麗は主に鴨緑江を渡って韓半島の北部を往来し、現在の中国領の集安と平壌に王都を開いて往来していた。つまり河川を苦手にしてはいなかったのである。
話しを戻そう。395年7月、百済が攻めてきたので、王は自ら精兵5千を率いて迎撃し、その翌年も戦い百済兵8千人余を捕らえた。401年正月、王は燕に使臣を遣わして朝貢をしたが、何を朝貢したのか定かでないが燕の慕容盛王は広開土王の朝貢に傲慢だと怒り3万の兵を率いて攻めてきた。広開土王はどう対応したのか不明だが、燕王は高句麗の百余里の土地を開拓して5千余戸をそこに移して帰ったと三国史記に記されているが、燕人を移したのかどうかは定かでない。
(キム・ヤンギ 比較文化学者)


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