在日の英雄 義士 元心昌26

「在日同胞と同志的な立場に立つ団長を」
日付: 2016年07月27日 22時38分

6・25動乱期 第11代民団中央団長に当選

 元心昌氏は1949年6月の団長選挙で曹圭訓氏に惜敗した後、民団指導部のすべての職責から退く。そして再び指導部に登場したのは、6・25動乱の真っ只中の1951年4月3日であった。この日民団は東京中央本部講堂で第11回全体大会を開催し、元氏を民団の中央団長に選出した。
競合候補は金載華氏であった。民団の団史(20年史から50年史まで)は金氏を「大物を自称し、相手に向かって個人攻撃を日常的に続けた」と、やや否定的に記録している。雄弁な策士という記述もでてくる。当時金氏は、現役の第10代民団中央団長であったことから、選挙の構図上有利であった。
元心昌氏は団長に立候補し代議員たちに「我ら在日同胞と同志的な立場に立つことができる善良な愛国闘士を選んでほしい」と訴えた。極めて平凡にみえるメッセージであった。一度団長選挙で落選していることから、より積極的な訴え、そして自らの公約を前面にだしそうだが、元氏は自分のスタイルを崩さず、落ち着いて有権者に近付いた。
この時の民団団長選挙を理解するために、時代状況と当時の民団内部の動きをみてみよう。当時は北韓・金日成の南侵により、韓半島全体が戦乱に見舞われた非常時であった。民団も急激に動いていた。内部に非常対策委員会と志願兵指導本部(金光男本部長)を結成し、積極的に本国救護活動を展開していた。戦争勃発4カ月目となる1950年10月までに現金93万2712円を集め、同胞らが丹念に送ってきた慰問品を入れた慰問袋を2825個用意し、祖国戦線に救援基金を送った。特に在日同胞は、大学生をはじめとした学徒義勇軍を組織して全642人の青年学生がペンの代わりに銃を持って祖国戦線に自主的に出征した。在日同胞学徒兵は米軍第7師団とともに仁川上陸作戦に参戦するなど、今日の韓米連合軍を支援する韓国軍要員である「KATUSA」の元祖としての役割を担った。
このように民団の第11代団長を選出する全体大会は6・25動乱という急変事態のなかで行われた。民団内部では、現役の金載華執行部に反対する人々が別の組織を結成しようとする動きをみせた。実際その証拠として「駐日代表部諮問委員会」という組織を挙げることができる。民団執行部に反対する知識人層と経済人が諮問委員会を結成し、彼らは民団とは別に国防献金を集めて志願兵指導本部の活動を展開した。
議論の余地はあるが、在日学徒義勇軍の募集を民団執行部ではなく代表部諮問委員会が主導したという説が伝えられている。その理由は、代表部諮問委員会の存在である。
それもそのはず。代表部諮問委員会所属のメンバー構成がそうそうたる人物で占められていた。代表格である幹事長に金煕明氏を前面にだし、民団内部の人士では政治部所属の権逸氏、曺寧柱氏、鄭哲氏などが参加した。経済人からは、盧栄漢氏(後の鷺梁津水産市場社長)、徐甲虎阪本紡績社長、李源万氏(コーロン創立者)、孫達元新日本工機社長など、財力のある人物が大挙含まれた。
現役団長であった金載華氏は、政治部次席常任委員として参加したが、多くは反金載華の人々であった。
しかし6・25動乱直後に結成された「駐日代表部諮問委員会」は翌年1951年2月10日に解体されてしまう。組織破綻の原因をつくったのは駐日本代表部とみることができる。代表部はその年の1月12日、「左右を問わず悪徳な者は本国に強制送還する」という声明を発表した。問題はこれが、日本政府とGHQ、韓国政府の合意であるという話が広がり、在日同胞社会に波乱を巻き起こしたのだ。民団内の反代表部運動が露骨になり、同胞社会の世論も同胞の意思を無視した妄言という否定的な空気が圧倒した。
このままでは民団がたちまちに解体されるかも知れないという危機感が広まっていた。そこで民団の第11代全体大会は自薦他薦の「革新大会」と標榜された。民団内部の派閥を清算して、祖国の求める大義に立ち、在日同胞の活動を強化しようという要望が殺到した。その点で元心昌氏の当選は時代の要求に添った結果であったという評価ができる。元氏はアナーキスト活動という前歴からもわかるように、自ら進んで権力や、派閥を結成することに相当な警戒感をもつ、自由主義者であった。独立運動を自ら実践した人物であるにもかかわらず、謙虚で控えめな性分であった。そのようなことから「我ら在日同胞と同志的な立場に立つ」という平凡な選挙公約であっても、真の魅力をアピールできたといわれている。それこそが元氏が選挙で勝利する決定打となった。
元心昌団長率いる執行部には副団長に盧榮漢氏、権逸氏の2人、事務総長に朝鮮人連盟からの転向者である白武氏、議長に金光男氏、監察委員長に金英俊氏がそれぞれ選任された。
(つづく)


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