朝総連衰亡史(8)

留学同工作の証言、これを嘘と否定するのか
日付: 2016年07月21日 15時02分

 ある在日知識人の回顧だ。在日知識人の典型といえるかもしれない彼は、逡巡の若いとき、留学同に加入し、どうすることもできないうちに、朝鮮労働党の「在日党」である朝総連の虜となって、その束縛から解放される過程を淡々と回顧している。彼のライフワークといえる「在日の精神世界」をまとめた著述には、学者としての真剣な研究結果はもちろん、少なからぬ貴重な証言も収録されており、在日の精神世界が見られる非常に興味深い内容が多い。
彼が朝総連に引き込まれた事情は、当然のことながら、精神的にとてもなじみ難い日本社会で生きてきた彼と在日韓国人が置かれていた時代環境と切り離して考えることはできない。「在日」たちが置かれたこの環境や状況を、朝総連がどのように組織的・体系的に接近し利用してきたのかは、彼の著述の中に痛いほどよく表れている。
まず、この在日知識人の回顧で朝総連の工作にさらされていた脆く未熟な世代の話を見てみよう。「総連の対南工作」に関して書いた部分で、朝総連に関係したことのある人々の聞き書きからの貴重な証言があるため、その部分をまず引用する。
<地下活動について実際に話してくれる人はあまりいない。ましてや当事者が実体験として語ってくれることはまずなく、多くは間接的な証言である。前に述べたように、作家・金石範が日本共産党を脱党して、仙台で北直結の地下組織で活動したのは一九五二年二月からであるが、耐えられなくて三、四カ月で辞めて命からがら逃げるも、三〇年以上もの間、誰にもそのことについて話さなかったという。祖国の党に直結している地下組織に参加することは、革命戦線に繋がるのだという自負と、いささかのヒロイズムさえおぼえていたともいう。
一九七〇年代のことであろう、大阪を中心に総連で働いた元活動家の梁永厚は、当時、総連組織から突然抜け出て消息不明になる者が少なくなかったという。周囲では対南工作のために地下に潜ったと暗黙の了解をする雰囲気であったというが、なかには韓国で捕まった者もいたという(聞き書き、二〇一四・一〇・二五)。現在名古屋で韓国語教室を運営している韓基徳は、一九七六年に北海道大学工学部に入学。三年生になってから学内の韓青同で活動し始めるも、大学は中退を余儀なくされる。八〇年の光州事件後、北大でも金大中救出運動が盛り上がる。学内人口が二万人と言われていたが、日本人中心の運動で約二万五〇〇〇人の署名が集まる。学内では一万人の教職員、学生が署名したと言われる。ちょうどその頃旧知の留学同北海道委員長である先輩が「ピョンヤンに行かないか」と声をかけてきた。その意味する中味が何だったのか正確には分からないが、当時、ピョンヤンに何人も行ったようだということは聞いて知っていた。韓基徳は即座に「とんでもない」と断るが、あれほど母国留学の在日政治犯のことが話題に上がっていたなかで、この先輩はいったいどんな神経をしているのか、「ぼくのことをなめているのか」と思ったという。八〇年代に入っても、留学同が韓青同や韓学同の学生にピョンヤン行きの誘いをかなりしていたのは確かである(聞き書き、二〇一四・八・二九)。
留学同や韓学同などが工作の主たる舞台になったようであるが、「在日」はもちろん、韓国からの留学生も集まった朝鮮奨学会での工作も多かったはずだとも言われている。なかでも留学同は朝文研を表看板にして、日本の大学に在籍する同胞学生を集めていくが、そこには「主体思想」とか「唯一思想大系」といった全体主義的な思考が根を張り、総連の傘下団体といいながらも、実際には北直轄の指導下にあった。
洪敬義は一九八一年、留学同の専従になって以降、留学同の仕事以外に、韓国からの留学生に接触する義務を負わされる。ノルマ五名。「韓国語を教えて下さい」などと言って学内サークルに勧誘するなど、「洗脳」が目的であるが、そう簡単にはいかなかった。留学同の学生のときは、韓国籍で民団系の学生がかなり餌食になっていたのを見た。>(『在日の精神史3』105~107ページ)。
人間は弱い存在だ。朝総連の工作員たちは、若者たちの前に友人やメンターの顔で、あるいは初めての外国を一人で旅する旅行者の前に親切な案内者の顔で接近した。(つづく)


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