李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領52

国産化を通じての自主国防
日付: 2016年07月06日 12時27分

堂々と行ったベトナム派兵

 韓米安保協力を強調したにもかかわらず、朴正熙は米軍がベトナム派遣の韓国軍に対して作戦指揮権を行使するのを阻止した。もし米軍が韓国軍の作戦を統制すれば、韓国軍はカンボジア国境などの激戦区に配置される可能性が高く、そうなれば多くの戦闘員損失が予想され、また共産側が展開する「韓国軍は傭兵」という宣伝を合理化するようになると訴えた。
朴正熙が米国に対して示した自主的態度は、1968年の「1・21事態」と米国の情報艦プエブロ号が拿捕された当時の対応にもよく表れている。朴正熙は、米国が青瓦台襲撃事件よりもプエブロ号拿捕事件を重視して韓国の報復行為を抑えたことに怒った。
朴正熙はこの機会を利用して米国が韓国の安保を完全に保障する契機にしようと考えた。朴正熙はジョンソン大統領の特使、サイラス・バーンズ(Cyrus Vance)と会い、韓国の安全に対する米国の書面保障を要求した。朴正熙はまた、米国が持っている韓国軍に対する作戦指揮権も渡し、ソ連と中国が条約を通じて北韓に保障したのと同じレベルの安全保障を米国が提供しなければならないと要求した。朴正熙は60年代末には米国が「われわれ2国の友好協力関係は非常に満足な状況にあるため、われわれが今議論すべき問題はあまりない」というほど、韓米関係は良好な状態に達していた。
国家安保のための朴正熙の第2の努力は、軍装備の近代化だった。現代の軍事力は兵力数ではなく、装置の優秀さでその能力が評価される。韓国戦争休戦以降1960年代まで、韓国軍はそれこそ兵力中心の軍隊だった。1960年代まで60万の韓国軍は数字では北韓軍(約40万人)を圧倒していた。ところが韓国軍の装備は、現代戦争にはあまりにも時代遅れだった。1950年から1960年までの韓国の国防費構成を見ると、戦力増強投資費2・3%、装備維持費も2・6%にすぎなかった。一方で人件費が77・2%に達していたという統計は、韓国軍の装備の劣悪さを物語っている。
朴正熙政権が国防に貢献した最も重要な業績は、装備の国内生産を推進したことだ。朴正熙が経済開発政策として建設した重化学工業の発展は、軍需産業を興すベースになった。駐韓米軍撤収に反対して米国から引き出したものも、ベトナム戦争参戦の対価として得たものも、すべてが韓国軍の装備近代化という目標を達成するための材料だった。韓国軍は1970年代以降、初めて防衛産業らしい武器生産施設を建設することができた。
装備の近代化計画を土台として推進できたのが、朴正熙が執拗に追求した自主国防だった。自主国防と装備近代化計画は、コインの表と裏のように密接に繋がっている概念だが、朴正熙政権のより重要な安保スローガンは「自主国防」だった。現在もソウル・龍山の国防部庁舎にかかっている「自主国防」というスローガンは朴正熙の揮毫である。それほど朴正熙政権は、自主国防を国防政策の基本目標、あるいは哲学としていた。
世界のどこにも完全な意味での自主国防ができる国はない。米国のような強大国でさえも、他国と協力することで、国家安保を図っているのが現実だ。だが、朴正熙政権はせめて「国防予算」だけでも韓国の財源で100%編成できれば、という夢を抱いていた。朴正熙はその夢を1978年に初めて達成した。
朴正熙は盧武鉉政権がいう「自主」の水準をはるかに上回る「自主派」の一面を持っていた。カーターが道徳的な基準で駐韓米軍の撤収政策を断行しようとしたとき、朴正熙はまず訴えを通じて駐韓米軍の撤退を延期させようと努力した。だが結局、朴正熙はカーターの傲慢さに激怒し、1977年5月、撤兵の遅延を哀願するのをやめ、徐鐘喆国防長官をはじめとする軍事顧問らに「『行きたいなら行け』と言え!」と指示した。
行きたいなら行け、と米国を突き放した朴正熙の度胸は、結局カーターの非戦略的な駐韓米軍撤収政策を破綻させた。カーターの駐韓米軍撤収政策は、国家利益と戦略に基づいたものではなく、自らの道徳的な観点によるものだった。韓国が独裁体制であるため、米軍を撤収すべきだと話したカーターは、米国の政治学者から米国の最悪の大統領の一人として記録されている。(一旦終わります)


閉じる