在日の英雄 義士 元心昌24

同胞の祖国像「民主共和制独立国」
日付: 2016年07月06日 12時11分

1947年 民団世論調査

 元心昌氏は民団中総(現在の民団中央本部)の初代事務総長として、2年間の職務を忠実に遂行した。1946年10月3日から1948年10月4日までである。
この期間元氏は、民団組織を盤石なものとするために献身的な努力を傾けた。彼の先輩である朴烈団長が民団の象徴として対外的な活動に注力する役割だとすると、彼は組織構築作業の実務総責任者として、民団の骨組みを作り、肉付けをする役割であった。表立つものではなかったが非常に重要な役割を黙々と成し遂げたのである。
元氏が事務総長在任時代に遂げた実績を一覧にすると、次の通りである。まず、民団議長団の指導者として本国および日本国内の各国大使館に発送する決議文作成と発送の責任を負った。また、1947年1月に創刊した機関紙「民団新聞」創刊にも深く関与した。これに関連して「民団30年史」には興味深い内容が記述されている。機関紙の名前が最初は「朝鮮新聞」であったという記録だ。「朝鮮新聞」といえば、1959年1月1日に創刊した民営の民族紙、今の「統一日報」の前身と同じ題号である。いつ出て、いつまで存在したのかは記録に残されていないが、短い期間存在しており、機関紙の名前はすぐに「民団新聞」に収まった。
「宣伝・出版」は元氏の専門分野であった。アナーキズムに入門した20代はじめ、日本での留学生時代と中国で抗日独立運動をしていた時も、いつも彼は宣伝の分野で頭角を現した人物であった。中国でのアナーキスト組織の活動時期にも彼の役割であり、その任務は情勢を収集・分析し、それを基に抗日運動の方向性と方法を盛り込んだ決議文を作成し、出版物として対外的に宣伝をすることだ。だからこそ、草創期の民団で元心昌という名前が民団の声明書、決議文の発表の時に頻繁に登場したのは必然的であった。当時、民団には在日同胞識者層の参加比率が低かった。理論と実践を兼ね備えた元氏のような人物は珍しい存在であった。
元氏の民団事務総長時代、別に引き受けた肩書が2種類ほど把握されている。1947年3月に創立した傘下の司法育成会で副会長を務めたのに続き、在日同胞の生活安定を図ることを支援する、民団協同組合の組合長としても活動した。これらは、草創期民団で日本国内同胞の法的地位、勤労者としての権益問題を認識して準備していたという証拠だ。元氏は日帝時代に同胞労組の指導者として、日本人使用者に獣のような処遇を受けていた朝鮮人労働者のために闘争をしていた経験を持っていた。
この時点で草創期民団同胞の認識を垣間見ることができる興味深い記録を一つ紹介したい。1947年6月30日付『民団新聞』は解放2周年を記念して在日同胞がどのような考えをしているのかを知るため、認識調査を実施し、これを紙面に掲載した。記録は、民団創立者たちの思考と行動方針を把握するうえで貴重な資料となる。今日のように、調査に何人が参加し、回答率はどれくらいで、信頼度誤差範囲が何パーセントかなどの分析手法は明記されてはいない。しかし在日同胞の先覚者たちが、なぜ民団の活動に熱心であるのか理解するには不足がない歴史的な記録だ。
70年前、在日同胞たちは、「どのような政治体制を希望するか」という項目に対して、「民主共和政」を69%と圧倒的に選択した。続いて、「社会主義体制」を19%が支持した。そして韓日関係の方向性を問う項目では、「親善」が85%で最も高く、日帝統治直後であるにもかかわらず「報復」は13%に過ぎなかった。
祖国の信託統治の可否を尋ねる項目では、「自主独立」が90%で、「信託支持」(10%)を圧倒した。なぜ帰国をせず日本に残留しているのかを尋ねる項目では、「本国への財産搬入が不可能であるから」(36%)、「生活不安定」(23%)、「本国の未独立」(17%)の順で回答が返ってきた。日本で何をして生活をしていくのかを問う民生問題解決に対しては、「職業」(60%)と、「事業および貿易」(25%)であった。これらにより推測できることは、終戦直後(8・15直後)の在日同胞は、日本で外国人に対する職業差別があるとは想像もしていなかったとみられる。日本の外国人差別は1952年のサンフランシスコ講和条約以後露骨になったが、それ以前は水面下にあった。
一方、在日同胞1世は善政を広げる国として、米国(64%)、ソ連(11%)、英国(9%)、スイス(6%)の順で答えた。最後に、在日同胞が祖国に貢献できる分野を尋ねる項目では、「技術文化・科学技術」が49%、「文化」が40%という回答が出てきた。
(つづく)


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