李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領51

米国を通じての経済発展と安保の確保
日付: 2016年06月29日 08時52分

自主国防のための外交

 外交とは平和的な方法で国家安保を守り、同時にほかの国家利益も確保する手段だ。韓国の場合、外交は統一という国家目標にも寄与するものでなければならなかった。朴正熙政権は、以前の李承晩政権が武力による北進統一を公式の政策としたのとはまったく異なり、「武力による国土統一を望まず平和的な方法で統一を追求し、国連の監視下の南北韓総選挙実施を強調する」という言葉で外交政策を始めた。軍人が統治する政権が戦争より平和を強調するのは逆説的に捉えられるが、世界の多くの国々で一般的に見られる事例であり、朴正熙の場合は特にそうだった。民間人は勉強もしないで軍人を好戦的だと決めつけるが、実際には民間人の国家元首の方が安易に戦争を決定するというのが現代国際政治学の研究結果だ。
統一外交に加えて朴正熙政権が力を入れたのが経済発展のための外交だった。朴正熙時代の韓国外交は、1960年代は親西側一辺倒の外資導入と経済開発に重点を置いたが、70年代以降は非同盟外交を強調し、輸出主導型の経済外交を追求した。朴正熙時代の外交が一般人の認識とまったく異なる部分は、朴正熙の対北政策が、決して強硬な敵対政策で一貫したものではなかったという点だ。金大中政権以降、歪曲された形で伝わったが、「太陽政策」や対北和解政策の原型はすでに朴正熙時代に始まったものだった。
朴正熙は1970年8月15日、光復節の祝辞で5000万民族の利益のため「平和的な方法」で、祖国の統一を達成しようと提案した。朴正熙政権の主導で72年7月4日、歴史的な南北共同声明が発表され、南北関係に転機が訪れた。南北対話は朴正熙が公式に始めたものだ。青瓦台奇襲攻撃など北韓による絶え間ない武力攻撃を受けた朴正熙政権が、北韓に対して平和的接近を試みたという点は驚くべきことだ。そのため彼の対北和解政策は、国民の疑心を買わなかった。
1973年、朴正熙は「6・23宣言」を通じて、外交政策の転換を再度試みた。統一の障害にならないという条件で、南北の国連同時招請と同時加入に反対しないということ、そして互恵平等の原則で、理念と体制を異にする国とも互いに門戸を開放すると宣言したのだ。これは、それまで固守してきた、北韓と修交した国とは修交しないという、いわゆる「アルシュタイン・ドクトリン」を否定し、韓国外交の領域を一次元高めたものだった。米国との関係を厚くする一方、第三世界とも外交関係を進めるという朴正熙の外交哲学は、一言で「実利外交」、「バブル外交の排撃」、「経済外交の強調」と評価できるだろう。
朴正熙政権の国防政策は、第1に韓米同盟の維持および強化、第2に軍事装備の近代化、第3に自主国防の軍事安保哲学の提示に要約される。何よりも朴正熙は、韓米同盟の強化・維持のため努力した。大韓民国の国家安保を最も確実に保障する安全装置が何なのかを正確に知っていたため、韓米同盟の維持・強化が国防政策の最優先になったのだ。
朴正熙政権の国防政策は、経済的な国力の基礎を十分に確保することで、共産主義から国を守る基盤を構築するという目標を定めて実施された。朴正熙は経済力が国家安保の基礎である事実を強調した。軍事力を国家安保の要諦と考えた金日成と異なる部分がまさにここにあった。
朴正熙政権の国防政策は、北韓の対南活動を牽制するために1962年から始まった経済開発5カ年計画を側面支援することに表れた。国防力の強化をもとに、米国への依存度を減らすという自主国防の目標も朴正熙時代に初めて提示された概念だった。しかし、朴正熙が追求した自主国防は、独自路線を意味するものでなく、韓米同盟において韓国が担当する比率を上げる次元のもので、盧武鉉政権で議論され、韓米同盟を損ねた自主国防論とは完全に別のものだった。
例えば64年、朴正熙政権の国防基本施策の最初の項目は「自由友邦、特に米国との軍事的紐帯による集団安全保障体制の強化」を謳っていた。ほかにも朴正熙は、自分の演説や著述を通じて米国からの自主を語り、米国の援助政策が誤ったことを叱咤するが、その米国批判は常に韓米同盟関係を強化するためのものであり、韓国が米国との親善友好関係を少しも損ねるものではないと強調している。


閉じる