1946年10月3日、その日東京には秋雨がしとしとと降っていた。在日同胞が千代田区にある日比谷公会堂に続々と集まってきた。世の中に韓民族の空が開かれた日という意味の「開天節」当日。雨が降りしきるなかにもかかわらず同胞たちが日比谷公会堂に集まった理由は新しい民族組織、「在日本朝鮮居留民団」(現在の在日本大韓民国民団)の創立式に参加するためであった。
『民団30年史』(1977・11)によると、この日参加した同胞たちは代議員218人をはじめ、20以上の団体から約2000人にのぼる。参加団体には、新朝鮮建設同盟(建同)、在日朝鮮建国促進青年同盟(建青)をはじめ、建国促進会、朝鮮倶楽部、朝鮮交易社、朝鮮居留民団、大韓協会、朝鮮貿易会、科学研究者会、国際新報社、自由新聞社、産業建設団、朝鮮文化協会、商工連盟などがあった。
彼らはなぜ民団の創立式の場所に日比谷公会堂を選んだのだろう。絶妙な選択に違いない。
公会堂は、日本の象徴である天皇の住居「皇居」から橋ひとつ渡った、至近距離に位置している。そして、日本人が関東大震災を克服するという決意を固めて1929年度に竣工した建物でもある。日本の復興を象徴する公会堂は関東大震災発生時、秋風落葉のように崩れ落ちた多くの建物のなかで、唯一健在を誇示した日本初の近代式ホテル「帝国ホテル」から目と鼻の先にある。帝国ホテルは日本の高官が朝鮮を植民地にしたことを祝うために韓国虎の料理会まで開いた、韓民族にとって恥辱の歴史が宿っている場所である。
そのようなことから、民団創立の主役たちが創立式場に日比谷公会堂を選んだのは、「植民地朝鮮を克服し、新祖国をたてる」という意志を明らかにするためであった。元心昌氏が主導的に参与した建同のモットーもやはり、「海外でも民族主体性を堅持する」であった。
次に、建同と建青はどうして民団創立の先頭に立ったのだろうか。その背景を振り返ってみる必要があるだろう。
当初、両組織の結成のきっかけは単純であった。思想団体に変質した朝鮮人連盟(朝連)に失望する人が意気投合したのが出発点である。要約すると、祖国の信託統治に賛成する朝連に対抗しようという反対者などの集まりだ。しかし、両組織の力は弱かった。朝連とは比較にならないみすぼらしい人員による、貧弱な活動を行っていた。厳しい現実であった。
そして自然と、より強力な民族組織の出現が必要で、朝連一色の在日同胞社会の現状打破が必要だという声が湧き上がってきた。そのためには共産主義に反対する右翼系が総結集するべきであり、散らばっている各同胞団体の糾合を優先しなければならなかった。そうしてこそ建同が掲げた、在日同胞の生活安定と権益保護のような活動を実質的に行える力を得ることができるようになる。
新しく、そして強力な民族組織の出現は、当時の在日同胞社会の時代的要求であった。
この要求に応じるように、新たな民族組織「民団」を結成しようという議論が表面化したのが1946年8月31日。この日の建同の第2回全国大会で、この問題がはじめて提起された。建同は同年の9月25日、建同本部講堂で、「居留民団結成準備委員会」を発足させ、委員長に高順欽氏を選出した。建青も同日、永田町の国民学校講堂で第3回全国大会を開いて民団参加を決議した。建同と建青、二つの組織は9月28日、全国代議員合同会議を開いて民団の諸般原則と創立式の方法などを合意し、組織構築に拍車をかけた。そして1週間後の10月3日、ついに汎右翼系同胞が総結集した、新生民族組織「民団」が創立の実を結んだ。
この日、金容太氏の司会により開かれた創立式で、在日韓人同胞の民団創立者は、組織の宣言と決議文を採択した。また、高順欽氏が議長を務め、代議員会議を開き、民団の初代指導部を選出した。人選の結果は、団長に建同委員長の朴烈氏、副団長・李康勲氏、事務総長・元心昌氏、議長・高順欽氏、内務部長・金鍾在氏、財務部長・玄熙氏、渉外部長・金正柱氏、文教部長・鄭哲氏、社会部長・裵正氏、地方部長・金在和氏であった。元心昌氏は、民団の実務を統括・管掌する事務総長で、当時の民団組織体系では、序列3位に該当した。(つづく)
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