在韓米軍撤退論の台頭
ニクソンは、今後アジア地域で戦争が勃発した場合、米国は戦闘部隊を派兵しないという考えを明らかにした。米軍はベトナムから撤退しはじめ、朴正熙が憂慮した状況が現実となったのだ。このような状況で、朴正熙は祖国の近代化と同時に、早急な自主国防を最優先の政策課題として打ち出さざるをえなかった。在韓米軍の引き揚げまで見えてきた過程で、朴正熙はニクソンとの韓米首脳会談の開催を要求し、1969年8月22日、サンフランシスコでニクソンと会談した。朴正熙は在韓米軍の増強よりも韓国軍の戦闘力強化を要求し、装備の近代化と防衛産業育成への支援を要求した。
1960年代の国際政治を硬直した二極体制というなら、1970年代は硬直した二極体制に雪解けのムードが漂いはじめた頃だった。デタント(detente)という言葉で表現される1970年代の国際政治体制は、韓国のような国際構造の下位に位置する国々には大変困難な、歪められた安保構造を生み出した。米ソ間の緊張は緩和されたが、米国とソ連の代理戦の性格を帯びていた南北韓の関係はまったく緩和されない状況だったのだ。
大国間の和解は、韓国のような国々がそれまで選択してきた対決政策をそのまま持続することも、あるいは修正することもできない状況を生み出した。ソ連との和解がなされた状況では、米国は韓国に対する北韓の攻撃を、ソ連が米国を攻撃したものと考える必要がなくなった。韓国の防衛を担当する米国の努力とその必要性は弱くならざるをえない状況だった。
このような国際政治の状況変化の前提が、1969年に発表された「アジアの防衛は、優先的にアジアの当事国が担当すること」を求めるニクソン・ドクトリンだった。自主国防能力を持たない状況で、北韓が攻撃してきても米国の速やかな支援が期待できなくなった朴正熙政権は、安保問題の緊急事態に陥った。もはや、米国とソ連の関係、韓国と北韓の関係は、同じ流れと構造で動くものではなくなった。
弱り目にたたり目で、ニクソン・ドクトリンは、在韓米軍の一部引き揚げという実質的な政策として表れた。米国は韓国に駐留していた米部隊から2万人を撤収させると決定した。1970年7月6日、ウィリアム・ポーター駐韓米国大使は、在韓米軍の1個師団2万人を引き揚げるという米国政府の決定を韓国政府に一方的に通告。朴正熙は、韓国側と十分な事前協議なしに一方的に決められた在韓米軍削減決定に強い不満を表した。
朴正熙は、韓半島の危機が解消されていない状況で、在韓米軍の撤収は再考されるべきと主張し、在韓米軍の撤収に強く反対した。米国側は韓国軍の近代化のため今後5年間で15億ドルの軍事援助とF‐4ファントム1個戦術飛行団を韓国に配備すると約束したが、ニクソン・ドクトリンはアジアのすべての国々に公平に適用されると定めていた。朴正熙は米国の約束は履行されないと見て、自主国防以外に方法がない状況に急速に陥っていると感じた。
1970年代の韓半島の安保への大きな衝撃の一つは、米国が中国を承認したことだった。キッシンジャーの大戦略に立脚して計画された中国と米国の国交回復は、韓国にとって国際政治のパラダイムの地殻変動を意味する深刻な問題だった。韓国はそれまで中国を「中共野蛮人」と呼んで大敵と認識してきたが、韓国の同盟国である米国が、われわれの最大敵国である中国を外交のパートナーとして認めたという衝撃は、これ以上ないものだった。日本もこれを「ニクソン・ショック」と表現し、北韓も中国が米帝国主義と修交した事実に驚かざるをえなかった。結局、南韓も北韓もこのような状況に対処するため、内部の安保体制強化を図らざるをえなくなった。南韓の維新体制と北韓の社会主義憲法改正は、1970年代初頭の米中国交正常化という衝撃的な国際状況変化に対する南北双方の国内政治対応だった。
ニクソンがウォーターゲート事件で辞任し、フォード副大統領が短い期間大統領に在任した後、1976年の大統領選挙で、在韓米軍「全面撤退」を選挙公約として掲げたジミー・カーターが当選した。