大韓民国の建国史(33)

左翼の反乱を鎮圧 国家保安法を制定
日付: 2016年06月08日 23時30分

 大韓民国の建国過程において、安保の軸は警察と国防警備隊(1948年9月1日からは国軍)だった。だが、両者の関係は円滑でなかった。警察は理念的に右翼だったが、国防警備隊は米軍政が募兵過程で左翼分子を排除しなかったためだった。
朝鮮警備士官学校(陸士の前身)の第3期は「麗水順天反乱事件」の核心だった金智會、洪淳錫など約60人が共産主義者か左翼シンパだった。左翼の潜入は済州島が最も深刻で、1946年に〓瑟浦で創設された警備隊第9連隊には上から末端まで侵透していた。
南労党指導部は大韓民国が建国されると大々的なゲリラ戦を画策し、武装闘争を開始した。ゲリラは楊平付近の龍門山、五臺山、大邱の西にある伽耶山、俗離山、智異山、白庵山などに基地を作った。
南労党は平壌郊外の江東政治学院で越北者約2400人を政治工作要員や遊撃要員として養成し、大韓民国の後方撹乱に投入した。
南労党が起こした済州島の4・3暴動は、建国後もまだ完全に鎮圧されず、国軍14連隊が鎮圧に出動することになった。鎮圧命令を受けた14連隊が10月19日に出動するため麗水港に集結したとき、連隊内の南労党組織責・池昌洙が主導して反乱を起こした。これが麗水順天反乱事件だ。
反乱軍は麗水と順天を占領し、400人余りの警察や右翼人士を殺害した。人民委員会は人民裁判を開いて右翼人士を現場で銃殺した。ほとんどの遺体は手足が切断され、縛られたまま発見された。順天の警察署長は眼球をえぐられ、車で引きずり回されてから殺害され、遺体は焼かれた。
反乱とともに不気味な噂が広がった。北韓軍が間もなく南侵するという噂である。中国では毛沢東が大陸を席巻し、米軍撤退も間近といわれるなど、新生大韓民国は極度の安保不安状態に陥った。反乱軍や左翼は、智異山と白雲山へ逃走しゲリラ戦を展開した。
死者2533人・負傷者1300人など、莫大な人的・物的被害が発生した麗水順天反乱事件の直後、政府は軍部内の南労党勢力を根絶するため大々的な粛軍作業に突入。全兵力の約10%に相当する4749人の将兵が軍を追われ処刑された。右翼青年たちが粛清された将兵に代わって入り、国軍は強く生まれ変わった。
国軍はそれ以降、38度線一帯での武力衝突と6・25戦争で一糸乱れぬ指揮体系で戦闘に臨むことができた。14連隊の反乱は、「祝福に変わった悲劇」といえよう。この事件を契機に、特別刑法である国家保安法が制定(1948年11月20日、法律第10号)されて12月1日から施行された。
金日成はそれまで主張していた「民主基地論」を「国土完整論」に発展させた。北韓にまず「民主的な政権」(プロレタリア独裁政権)を樹立し、北を基地として「親日派」が掌握する南韓を解放し、国土を完整するということだった。金日成は南韓内での工作や武装蜂起で李承晩政府を倒すつもりだった。だが、予期せぬ時期に麗順反乱が起きたため、韓国軍全体の大規模な反乱を画策していた金日成政権の目論見は外れた。
南労党は米軍の撤退を共産化の適期と捉え、山岳地帯を根拠地として総攻勢に出た。南韓各地で蠢動した左翼とパルチザンは7万人と推定されている。多くの山岳地帯は、日中は大韓民国、夜は人民共和国となった。李承晩政府はパルチザンや北からのゲリラと死闘を繰り広げ、1949年8月まで9500人を射殺するなど、掃討作戦を展開した。   (つづく)


閉じる