「新朝鮮建設同盟(建同)」は1946年1月20日に結成され、同年10月5日に解体されており、非常に短い間に存在した組織であった。しかし、この短期間に輝かしい活動を行った。建同の業績のなかで最も注目されたことは、日帝時代に独立運動をして命を失った義士の遺骨を発掘し、これを祖国に送還したことであった。朝鮮日報は1946年4月22日付で次のように報じた。
「祖国の解放と光復のために海外で戦って露と消えた、李奉昌、尹奉吉、白貞基など七人の遺体はこれまで東京遺骨奉安会に安置されていたが、20日徐相漢、李康勲、韓現相3氏の懐に抱かれて東京を離れ、祖国に戻ることになった。今回奉還される義士たちは、民族主義者、共産主義者、無政府主義者など左翼右翼を問わず私たちが一緒に最大の敬意を表わさなければならないだろう」
当時、建同の団員は国内メディアを対象に建同の活動状況と、義士の遺骨を捜し出した経緯を詳細に解説した。その年の東亜日報4月27日付、「在日新朝鮮建設同盟、三義士遺骨奉安に対して言明」という見出しの記事によると建同は、「私たちの同胞が一日も早く祖国が完全に独立して建国大業に参加する日を喉が渇くように待っている」として、「この人たちを真の路線に導くために組織された団体が建同で、民族団結、生活安定などの様々な運動を活発に展開している」と明らかにした。
この時建同側が説明した李、尹、白、三義士の遺骨と遺品が捜し出された経緯を要約すると次のとおりだ。建同団員が最初に探し出した遺骨は尹奉吉義士であった。金沢に駆けつけた建同の団員は数日の間宿泊したが、これといった進展がなかったという。入手した情報は、共同墓地に埋葬されているということだけであった。
現地の日本人が誰も何もわからないという状況のなかで捜し出すのは、途方も無い道のりであった。この時、建同の団員は住民に、「それでは、この部落の墓を全部掘ってみる」と圧力をかけたところ、その日の夜、誰かがある墓地に手札をさして行ったのを確認した。その墓地を掘ってみると尹義士の遺骨とともに、彼が持ち歩いていた木製の十字架と、紫色のスーツ、黒の靴、そして中折帽が入っていた。
李奉昌義士の遺骨捜しも難航していた。遺骨が埼玉県浦和刑務所墓地にあることを知り、まず日本の法務大臣を訪ねて行き発掘の協力をお願いした後に、現場を訪ねた。しかし刑務所長が、「分からない」と言い張ると一瞬緊張感が流れた。団員が、「最後の手段を使うほかはない」と圧力をかけはじめると所長は矯導官を呼んで、李義士の遺骨発掘に協力するよう指示をした。
白貞基義士の遺骨を捜すために長崎刑務所を訪ねた時には団員が耐えることのできない侮辱を受ける事態が起こった。刑務所長が、「独葬でなく他の死体と合葬したようだ」と発言したせいで一瞬修羅場と化したようだ。六三亭義挙の同志である元心昌氏の心情は、他の誰よりも耐え難い怒りとともに挫折感を感じただろう。冷静になり再び反論すると所長は、埋葬者名簿を持ってきて対照作業を進めた。そして、「独葬が正しい」と謝罪し、白義士が埋蔵された場所を伝え、遺骨を収拾することができた。
建同はこのように紆余曲折の末に収拾した三義士の遺骨を、東京陸大にある建同の東京本部に納めた。その年の2月19日には、在日同胞大衆とともに神田公会堂で遺骨奉安会を挙行した。 以後三義士のほかに、金清光、金錫永、洪性周、朴尚祚まで7人の遺骨を収拾した。これらの遺体はその年の5月15日午前、釜山港に到着した後、釜山市内の大倉洞にある南鮮女高に一時的に安置した。
その後6月15日に釜山公設運動場で、追悼式を挙行した。それだけでは惜しいという世論が起きて、7月7日午後、ソウルの孝昌園(現在の孝昌公園)で国民葬が行われた。
この日の国民葬には、李承晩、金九、李始榮、呂運亨と、韓国民主党、韓国独立党、朝鮮共産党などの政党、そして団体、学校の代表者、一般国民まで5万人余りが参加した。多くの国民は早朝から安置所である鍾路の太古寺(現在の曹渓寺)を訪ね、命を失ってはじめて独立した祖国の土地を踏んだ護国英霊を追慕した。太極旗で包んだ白の霊柩車が移動した際には、数万人が沿道に詰め寄せ、独立の志士たちの最後の行く道を見守った。 (つづく)