1948年8月当時、大韓民国を国家として承認しているのはバチカンだけだった。米国は承認を先送りしていた。韓国代表団は、国連58カ国の代表に接触して大韓民国誕生の当為性を説明した。だが、加盟国でなかった韓国代表団は、交渉相手国の代表に公式に会うことはできず、オブザーバーの資格で一般傍聴席から会議を参観するしかなかった。
プロテスタント信者の李承晩大統領がカトリック信者である張勉を首席代表に任命したのは賢明な判断だった。張勉の米国留学時代の恩師だったパトリック・バン司教が初代駐韓教皇使節として赴任したため、教皇庁の外交網を「承認外交」に活用するため張勉を首席代表に任命したのだ。
当時のローマ教皇ピウス12世は、第2次大戦中の舞台裏外交で仲裁者の役割をなし、国際外交の舞台で強力な影響力を行使していた。ピウス12世は47年、米国メリノール宣教会のパトリック・バン主教を特使として韓国に派遣した。これは、国際慣例上教皇庁が韓国を主権国家として承認したものと理解され、韓国が国際的承認を得る過程で大きな力になった。教皇はバチカンの国務長官であるジョバンニ・バチスタ・モンティーニ大司教と在仏教皇庁代表のロンカリ大司教に、第3次国連総会に出席した韓国代表団を支援するよう指示するなど、外交的支援を惜しまなかった。
韓国の「国連承認外交過程」でもう一つの味方となったのは米国だった。米国代表団長だったジョン・フォスター・ダレス国務長官は、駐韓特使ムーチョをパリに呼び、韓国を支援するよう命じた。張勉は後日、ダレスについて「大韓民国の建国と国際的承認のため、誰よりも燦然たる貢献をした、われわれには到底忘れられない偉大な恩人」と表現した。
ダレス国務長官は、李承晩とジョージ・ワシントン大学やプリンストン大学の同門だ。こうした縁もあり、ダレスは6・25戦争勃発時、米国の迅速な参戦を誘導し、休戦協定の締結過程で李承晩を除去しようとする米国の計画(エバーレディ計画)を止め、韓米同盟の実現に尽力する。
南労党による済州4・3暴動などの反乱を鎮圧し、国連の承認を得るために厳しい外交を行っている渦中、金九と金奎植の南北協商派は建国を否定した。建国反対勢力は8月1日、パリで開催される国連総会に派遣するため、金奎植を首席代表とする代表団を選定した。分断政権を承認せず、重慶臨時政府を承認するよう訴えるためだった。先発隊の徐嶺海はすでにパリに行っていたが、金奎植が首席代表職を受諾しなかったため、代表団の派遣は頓挫した。
国会議員約40人が10月13日、外国軍隊撤退案を提案した。金九は11月3日、米ソ両軍の撤退後に統一政府を樹立するという要旨の談話を発表し、これを国連事務総長に送った。大韓民国承認外交に水を差す行為だった。
だが、国連総会は1948年12月12日、賛成48・反対6・棄権1で大韓民国承認を可決した。国連総会の決議第195号第2項は、「国連韓国臨時委員団の監視と協議が可能で、かつ韓国国民の多数が居住している韓国の地域に対して実効的支配権と管轄権を有する合法政府(大韓民国政府)が樹立されたことと、同政府は、韓国の同地域の有権者の自由意思と正当な表現でかつ臨時委員団によって監視された選挙に基づいたことと、また、同政府が韓国内の唯一の、そういう政府であることを宣言する」と規定した。(つづく)