在日の英雄 義士 元心昌19

「飢えた日本人をおいて私たちだけ腹を満たすことはできない」
日付: 2016年05月25日 11時31分

外国人配給特権を断固として拒否

 元心昌氏が「新朝鮮建設同盟(建同)」の結成に積極的に関わったのは、祖国が二度と他国による支配体制に入ることを許さないためである。運動の目的は鮮明であった。当時、駐留在日同胞組織朝鮮人連盟の賛託を防ぎ、祖国の自主独立を促進するということだ。
それでも、元心昌氏は頑固なショービニスト(盲目的愛国主義者、国粋主義者)ではなかった。個人の自由意志を広げることのできる社会づくりを目指した平和愛好家であり、アナーキストであった。また、民族と国境を超えて、人間の道理を知る人物であった。彼の人柄、道徳の一端を垣間みることができる記事が1946年はじめ、日本の「朝日新聞」の「聲」欄に掲載された。解放直後、元心昌という人物がメディアで紹介されたほぼ唯一の記録である。当時、韓国と日本で小説家として活動していた張赫宙氏が投稿した朝日新聞の記事は次の通りである。
「前回上京して、新朝鮮建設同盟の副委員長元心昌氏と会談をした。『朝鮮人に主食四合(1日720グラム)配給の特典があるのか』と筆者がたずねて、元氏は『ない』と述べた。『(日本当局に)そのような要求を提起する意向はないのか』と再びたずねるとすぐに『ない』と答えた。元氏の淡々とした顔に、筆者は意外という気持ちになった。そして『外国人であるから当然の要求ではないか』と追及すると、元氏は『たとえそういう特典があったとしても、私たちは辞退しなければならない。隣人である日本人が二合一勺(360グラム)で飢餓に苦しんでいるなか、私たちだけ四合で腹を満たすことができようか』、彼は顔色も変えずに答えた。筆者は顔が赤くなった」
敗戦した日本の経済状況は底を打っていた。人々は食べ物を手に入れるため、家族の遺品を闇市で売って、銀座の真ん中で米軍を相手にした売春まで堂々と行っていた。戦後日本はそれこそ暗黒期を送っていた。
この時、外国人ということで制度を利用した政策配慮を受けることはできた。外国人が当局から配給食糧を日本人の2倍受けるのは違法ではなかった。しかし元心昌氏は、このような発想自体を「破廉恥な特権」であり、「人間の道理ではない」と思っていたようである。もしひたすら民族だけ掲げ、外国人集団としての権利を主張していたならば、配給を多く受けることができただろう。しかし元氏は、たとえ飢えることがあっても、それを「道徳心」に変えることは容認できなかったのだ。
再びこの時期の、在日同胞組織の話に戻ってみよう。巨大組織、朝連(朝鮮人連盟)に対抗できる最も力のある組織は、建青(朝鮮建国促進青年同盟)であった。この時点で、一つの疑問が生じる。元心昌氏はなぜ建青に参加しなかったのだろうか。そして、あえて別に建同を結成しなければならなかったのだろうか。
この疑問に対して、韓国青巖大学校の成周鉉教授は、「解放後元心昌の民族運動と統一運動」というタイトルの論文で、「元心昌が朝連や建青に参加しなかったのには2つの理由があったものと思われる。第1は、朝連の左翼化であり、第2には、建青への親日人士の参加であった」(韓国の民族運動史研究251ページ)と分析した。
朝連は解放直後、理念と思想の違いを超越した汎民族団体として出発したが、すぐに共産主義者に主導権を掌握されるなかで左翼化された。建青は左翼化に反対した人たちが設立した団体で、対外的には、鮮明な民族主義路線を標榜したが親日人事からの資金支援を受けるなど、アイデンティティが鮮明でなかったというのが、成教授の主張である。
もちろん、これらの主張に異論の余地がないわけではない。しかし、元心昌氏が朝連や建同に参加する意思がなかったことは間違いないようだ。これは、建同組織の人的構成で推測することができる。建同指導部の主流は、抗日アナーキスト活動家たちで構成された。アナーキスト純血組織とまではいえなくても、少なくともアナーキスト同志たちが主体勢力であったのは明らかだ。
委員長に推戴された朴烈氏の場合、1920年代から元心昌氏と一緒に黒友会などでアナーキスト活動をともにした同志である。李康勲氏も元氏とは1933年に上海六三亭義挙を通じて運命をともにした関係である。
建同の隠れた特徴は、組織を代表する人物が、抗日独立活動家として広く名声を得ているという事実だ。朴烈氏は1923年のいわゆる「大逆罪天皇爆殺未遂事件」で22年以上投獄生活をした日帝時代最長期服役囚として当代の著名人に選ばれた。元心昌氏と李康勲氏はやはり日帝時、3大海外義挙の主役として十分名前が知られた人物であった。象徴性の強い志士が共産主義に反対して新しい民族組織「建同」を結成した、それから8カ月後、民団結成につながったのだ。
(つづく)


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