白貞基義士 収監中に獄死
「長崎県長崎市岡町134―2」
元心昌氏が六三亭義挙の裁判を受けていた当時、収監されていた長崎刑務所浦上拘置支所の住所だ。ここに応援の手紙が殺到した。1933年11月10日、「一友」という匿名の発信者は元心昌氏に、監房での苦痛に耐えながら、何より元気でいることを望む、という願いを手紙に込めた。「無期懲役」という出口の見えない、長期的な収監生活のなかで、ときおり同志たちから送られてくる手紙は、苦痛を耐え忍ぶための大きな力となっただろう。
彼の人生は、収監中であっても平坦ではなかった。日帝当局は1943年、元心昌氏を「東京留学生学友会事件(1929年)」の首謀者として懲役5年を追加で言い渡した。十数年前の事件を再び掘り起こして罪を追加したものである。判決が下され、すでに処罰を受けた事件を再度審理した日帝当局は、一事不再理の原則さえ破り、彼を重犯罪者にした。
懲役15年の刑を宣告された義挙の同志、李康勲氏は、9年に減刑され、1942年7月2日に出獄した。しかし日本は、彼が再犯をするおそれが高いとして、予防拘禁という変則判決を下し、東京郊外にある府中刑務所に再び拘束した。
また、義挙の同志である白貞基氏は1934年6月5日、長崎刑務所受刑室で持病の肺結核が悪化して獄死した。享年39歳。韓国人アナーキストの媒体である『黒色新聞』は1934年6月30日に彼の死をこのように報道した。
「切痛! 白貞基君とうとう獄死。長崎県の刑務所に収容されてさまざまな苦難を受けてきた白君は今月5日に獄死した。(中略)彼の目は支配の魔獣にかかって苦しむ人類の悩みと朝鮮人の惨敗をみた。彼の精神は、あらゆる障害物を退治してアナーキズム自由社会を構築することができるという確信の結晶であった」
白義士は義挙の時すでに、自分の死を予感していた。関連して李康勲氏は義挙の実行者を決める際に、白義士がむくりと立ち上がると、「私の体は末期の肺病にかかっており、どうせ死ぬ命。(野合する日中の)輩を爆殺させて私も死ぬ」と証言したことがある。当時結核は難病で、取り調べと拷問や収監は病状をさらに悪化させた。
白義士は、予審が終わって上海黄浦江の船着場から長崎地方裁判所に強制連行される時、船上で同志たちにこのような遺言を残したという。
「私はあまり生きられないようです。同志たちは体が健康なうちに自重自愛してください。出獄や、もし万が一独立ができなかった場合、私を祖国の地に埋めないでください。独立したら私の遺体を祖国の地に埋めて、墓の上に花を一輪だけさしてくれることを望みます」
一方、元心昌氏、李康勲氏の二人は1945年8月15日、韓民族が日帝から独立するその日までも監獄に閉じ込められていた。連合軍に降伏して敗戦した日本政府であったが、日本全域の刑務所に閉じ込められている政治犯を釈放しなかった。
ポツダム宣言は日本政府に対し、政治思想犯の釈放を規定し、連合軍司令部GHQの「初期対日方針」の中でも、「政治的な理由で日本当局によって監禁されている者を釈放すること」を明記したが、日本当局は動かなかった。
ついにはその年の9月25日、韓国側の政治犯釈放運動促進連盟が日本側関係者とともに、GHQと日本の法務省前で大衆集会を開き、政治犯釈放を要求するに至った。
GHQは政治犯釈放命令を下し、10月10日元心昌氏は鹿児島刑務所から、李康勲氏は、東京の府中刑務所からそれぞれ釈放された。12年7カ月ぶりの出所であった。以来、元心昌氏は夢に描いた祖国をその目でみるために帰国船に乗った。
(つづく)