内乱に近い混乱の中で、金九と金奎植の総選挙不参加と反対宣言にもかかわらず、選挙を監視した国連委員団は「言論、出版、結社の民主的権利が保障された自由な雰囲気の中で実施された今回の選挙は、全韓国民の約3分の2が居住し、国連委員団の接近が許された地域で有権者の自由意思が正確に表現されたもの」と評価した。
全国200選挙区の平均競争率は4・7倍。当選者198人は無所属85人、大韓独立促成国民会54人、韓民党29人、大同青年団12人、その他18人だった。無所属当選者の中で韓民党寄りは35人で、韓民党が最大政派になった。李承晩系は国民会を中心に55~60人、中道左派性向の無所属が50人ほどで、制憲国会はこの3勢力が角逐する。無所属が圧倒的に多かったのは政党政治が定着していなかったためで、2年後の第2回総選挙も同じだった。
選挙後も大韓民国建国無効運動を行った金九と金奎植が平壌へ行かずに総選挙に参加していたら、李承晩に勝つ可能性もあった。金九は大韓民国建国後も、47年11月の国連決議に戻って国連監視下の南北総選挙を実施し、米ソ両国軍を撤退させ、建国された大韓民国を解体して統一政府を立てようという荒唐な主張をした。
今日まで観念的に続いている統一政府樹立や「親日派清算」主張は、歴史的実像に対する無知の所産だ。李承晩が建国に邁進していた当時、韓半島住民の78%は字が読めなかった。中等以上の教育を受けた人は2万6000人にすぎなかった。当時の韓半島の人口は南韓が2000万人、北韓が900万人程度だったから、中等以上の教育を受けた者は1000人に1人程度だったわけだ。この少数が悪質な親日派だったのだろうか。彼らを排除して新しい国が建国できただろうか。
解放後、韓半島が分断されると、南北間で大規模な人口移動が起きた。ソ連軍政が土地改革(46年3月)を強行し、反共人士を粛清すると、多くの人が北から南に脱出した。
規模は小さかったが、社会主義や共産主義者が南から北へ逃れた。金九・金奎植と一緒に平壌での南北協商会議に出席して北側の工作に協力した洪命憙(後に金日成の下で副首相)ら左翼系70人も北に残った。彼らの中には日本に留学した人もいたが、南韓出身者はほとんど粛清・処刑され、残った者は対南工作に利用された。
ルーズベルトは悪(ナチス)を倒すため巨悪(スターリン)と手を握ったが、李承晩は共産主義を国民国家建設の敵と規定した。1948年5月31日、制憲国会の臨時議長に選出された李承晩は、国会開院にあたり、牧師の李允栄議員に「まず神様に感謝の祈りを捧げて下さい」と要請し、予定になかった祈祷で開院式を始めた。
4・3暴動で総選挙ができなかった済州島では、暴徒を討伐すべき第9連隊の金益烈連隊長が人民解放軍司令官と会うなど鎮圧に失敗した責任を問われて5月6日に解任された。だが、後任の朴珍景大領が6月18日の夜に部隊内で南労党細胞によって暗殺された。
済州島は米軍進駐前に「朝鮮人民共和国」の地方組織の人民委員会が事実上統治した。南労党は7月、北韓政権樹立に参加する最高人民会議代議員の南韓代表を選ぶ地下選挙を実施。夜に戸別訪問し、白紙に署名させるなどして、最高人民会議代議員6人を選出した。金達三が8月初めに海州で開催された大会に参加した時に持参した地下選挙投票用紙は、5万2350枚だったという。(つづく)