在日の英雄 義士 元心昌16

法廷は日本帝国主義を糾弾する集会さながら
日付: 2016年04月27日 11時08分

「朝鮮を知っているのか」
裁判長を叱責する元心昌義士

 上海から長崎に強制連行された六三亭義挙の三義士は浦上拘置支所刑務所の独房に収容された。浦上拘置支所は1945年8月9日、米軍が長崎に投下した原子爆弾により全焼した。この時の爆撃で収監されていた韓国人も多数死亡したと伝えられている。刑務所は今「長崎平和公園」に変わっている。
1933年11月25日付の長崎日日新聞が報じた裁判の様子
三義士に対する公判は11月15日と24日の2回にわたり行われた。長崎地方裁判所で開廷された公判で元心昌氏と白貞基氏は無期懲役、李康勲氏には懲役15年が求刑された。このニュースは日本の新聞も詳細に報道した。
長崎日日新聞は、11月16日付に「有吉公使を狙った黒色恐怖団の公判が開かれる」という見出しで法廷の風景と、この日扱われた審理の内容を報道した。新聞によると、この日の午前10時開廷された公判廷に元心昌氏と白貞基氏は茶色の紙袷を身に着けて現れた。李康勲氏は未決囚を意味する青の罪修服姿であった。三義士は目を覆った帽子を被らされたまま、被告席で裁判を受けた。この新聞では、裁判を受ける義士たちの写真と一緒に起訴事実要旨、開廷するや傍聴を禁止したという現場の様子を伝えた。
審理は、日本当局が意図するとおり一気に進行された。検事が起訴内容を読み求刑をすれば、裁判長は、それをそのまま受け入れる形であった。決められたシナリオ通り、まさに裁判のために裁判をする要式行為に過ぎなかった。
三義士に唯一弁護の機会が与えられたのは、24日の結審公判の時であった。この日の午後2時40分、ものものしい警戒態勢のなか開かれた公判で長谷川裁判長は、村上検事が求刑した刑量を受け入れた。7月初めに上海予審の際に決定されたままであった。朝鮮東興労働同盟の梁一東(後に韓国国会議員)、丁贊鎭(後に民団中央本部団長)、鄭哲、崔學柱、洪性煥などは三義士に対する救援活動を展開したが実効性はなかった。韓国人アナーキストらは黒牛連盟事務所を担保に資金を用意して長崎に代表者を派遣して地域新聞と朝鮮人労働者合宿所に事件の転末を伝えるなど、力が及ぶ限り最善を尽くした。 だが、日本当局が法廷進入さえ封鎖する中で、救命活動は無為に帰した。
裁判長は、判決言い渡しの直前に被告に最終陳述の時間を与えた。唯一の弁護の機会に白、李両氏は日本語ができないため、弁論することができなかった。李康勲氏は生前に「日本語が下手で、何とかさからう感情だけを表現しただけだった」とし、「しかし、元義士は違っていた。日本語を流暢に駆使するだけでなく、理論も整然と歴史的に犯した日帝の罪悪、野蛮な行いの一つひとつに実例を挙げながら批判した」と告白した。彼は「法廷がまるで日本帝国主義の罪を糾弾する集会のようでした。元義士の雄弁は実に痛快だ」と述べた。日本の新聞でも元心昌氏の最後弁論記録が残っている。
「控訴はしません。しかしあなた方はわたしたちの立場にもなって貰いたい。表面に現はれた事体だけでいかんです。朝鮮の深い事情を知らんとするなら朝鮮に出張して見なさい」(11月25日付長崎新聞)
「裁判長は現代の朝鮮を考えず、ただ表面に現れたことのみをもって判決を下すのは認識不足も甚だしい」(11月25日付長崎日日新聞)
元心昌氏は机を拳で叩きながら、裁判審理の不公平さを主張した。5人の裁判官は慌てた様子を見せて「よしよし」を連発し、看守たちに三義士を連れて行けと命令し、状況を収拾したという。
この判決後、元心昌氏は一旦控訴をすることになる。控訴棄却を明らかにした後、控訴をしたことが裁判の手続きなのか、同志たちの粘り強い説得のためかは確認されていない。しかし12月17日、最終的に控訴を取り下げ、無期懲役刑が確定した。以後、元心昌氏は鹿児島刑務所で服役するなど、1945年8月に解放される日まで日本の刑務所にいた。   (つづく)


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