李承晩は48年4月1日、南北協商を批判する談話を発表した。
「全世界でソ連の政策を知る人々はみな時間を稼いで共産化しようという計画にすぎないことを看破しているのに、韓国の指導者の中でこれを知らず要人会談を主張すれば、大勢に蒙昧であるという嘲笑を免れがたい。さらに、北韓からの返事の内容が発表のとおりなら、ソ連の目的を助けるだけの何の希望もないことがわかるのに、できないことをやろうとして国事に妨害になることを知らぬなら、私たちはさらに落胆する」
金九と金奎植が成果の不透明な南北協商に乗り出したことについてホッジ司令官の政治顧問のジョセフ・ジェイコブスは4月9日、マーシャル国務長官に、二人が南北協商に乗り出さざるをえない状況を次のように報告した。
「金九と金奎植は表面上には『韓国の統一』を主張するが、実際に彼らが南北協商を提案し平壌の招待を受諾した理由は、選挙で当選が確実で、高位職に任命されそうな人々の中で彼らに追従する人々がいないからだ。彼らは『付添人になりたくない』のだ。彼らは他のところでより良い可能性を見つけようとしている」
金九と金奎植が南北協商で北側の宣伝材料になった状況で、5月10日に実施された韓民族史上初の民主選挙は円満に進行され、95・5%という驚異的な投票率を記録した。南韓地域の国会議員定数は200人だが、済州島の3選挙区のうち北済州郡の2選挙区が左翼の暴動で投票を実施できなかったため、198人の制憲議員が選出された。この総選挙は財産・性別・宗教・地域の差別なく全国民に等しく参政権を付与した画期的なできごとだった。
英国で女性に投票権が与えられたのは1928年、フランスは1945年、スイスは1971年だ。米国で黒人が実際に投票権を行使するのは1965年だ。
済州島では選挙日が近づくと南労党の暴力が4・3暴動当日よりも激しくなった。選挙管理者やその支持者に対する脅迫とテロが横行した。
投票所は襲われた。投票当日、南労党の暴徒は村の全住民を山に連行して投票を妨害し、投票所を燃やし選挙管理人員15人を殺害した。北済州郡管内133カ所の投票所の半分以上が選挙人名簿を奪われ、殺害された選挙管理人員以外に、5人が重傷を負った。血の5月10日だった。済州島の3つの選挙区のうち2つの選挙区は1年後になってようやく選挙が行われるというありさまだった。
1948年7月11日、自由中国の劉馭萬総領事は、金九に密かに会って大韓民国政府樹立を支持してほしいという蒋介石総統の意を伝えた。劉総領事は、金九になぜ建国に反対するかを尋ねた。金九は「私が平壌での南北韓指導者会議に出席した動機の一つは、北韓で実際に起こっていることを確認することでした。共産主義者たちが今後3年間、赤軍の拡大を停止し、その間に南韓が全力を尽くしても、共産軍の現兵力ほどの軍隊を建設するのはほとんど不可能です。ロシア人は容易に南を奇襲するはずで、直ちに南韓に人民共和国が宣布されます」
金九は、ソ連の支援を受けた北韓が遠からず南侵し、共産政権を立てることが明確であるため、あえて大韓民国を建国する必要がないと思っていたと見られる。金九の統一政府樹立の主張は、軍事力で勝る北韓の人民共和国に南韓が編入される道しかないということを知りながら国民を欺瞞したものである。(つづく)