李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領42

5・16軍事クーデター勃発
日付: 2016年04月20日 10時49分

米軍軍部の5・16支持

 社会秩序ばかりか国体と政体まで揺らぐ状況で、韓国国民は国政を担当していた張勉政権を信頼して従うことができなかった。張勉政権の支持率はわずか3・7%で、51・5%は静観すると答えたほどだ。4・19革命を支持し、その後張勉の民主党政権を支持した米国は、「韓国国民全体が信頼し、従う国家的理想と目標、政策を、想像力とビジョン、エネルギーを持ってこれを提示できる指導者や集団は発見できなかった。強力な指導者が国家的理想と政策を提示してこそ韓国社会の精神的・社会的混乱が終わるだろう」と考えた。駐韓米国大使のマコノヒーは本国に送った電文で、張勉政権が正直で清廉な若い官僚を人事で無視したことに失望を表わし、張勉政権内では有能で将来が嘱望される人材が重用されにくいと評価した。
 すでに米国は、韓国でいかなる形であれ、1961年3月から4月頃に政変が発生せざるをえない状況だと悲観的に見ていた。米国が予想した政変は、5・16軍事クーデターとして現れた。250人の将校と3500人の兵力が主導した無血クーデターだ。このクーデターを主導したのが、当時41歳の陸軍少将・朴正熙だった。朴正熙は4・19革命を支持したが、4・19の後に政権を握った政治家を批判。無能な政治家への失望と挫折は、朴正熙がクーデターを決心した最も重要な原因だった。
 何の抵抗も受けずクーデターに成功した朴正熙の革命軍は、特別放送を通じて革命勢力が行政、司法、立法府を掌握したと発表。「韓国社会に蔓延している不正腐敗を剔抉し、国家が直面している困難な状況を克服するため革命を断行した」と述べた。朴正熙の革命軍は3日後、革命委員会を「国家再建最高会議」と名称変更した後、本格的な政治改革に着手した。そして旗揚げから6日後、張勉を含む2000人の政治家を逮捕した。そして、夏が終わる頃まで約1万7000人の公務員、2000人の将校が逮捕され、解任するか除隊させられた。また「民族統一連盟」の学生指導者が検挙され、社会の浄化のため約1万3000人の不逞の徒が逮捕された。
 このように改革の手法は極端だったにもかかわらず、韓国国民の反応は悪くなかった。特に、革命勢力が不良暴力集団を大挙検挙すると、国民は歓声を送った。クーデターによる民主政権の崩壊に懸念を示していた米国も、朴正熙を支持した。当然、米国は、朴正熙のクーデターを制圧しようと思えば十分に制圧できた。
 実際にクーデターの直後、在韓米軍指揮官と在韓米国大使館は、クーデター勢力に対して不快感を示し、彼らを制圧し張勉政権を復活させるべきだと主張した。在韓米軍司令官のマッグルーダーは、クーデター軍を制圧するために軍事的措置を命令し、米国大使館もこれを支持した。米国本国の国防総省と国務省は静観するという立場をとった。
 米軍司令官によるクーデター鎮圧の動きに対し、名目上の国家元首だった尹〓善大統領は、米軍がクーデター軍と戦闘することに反対する立場を表明した。むしろ「来るべきことが来た」と思っていたという。朴正熙の軍事クーデターはいまだ論議の対象になっているが、当時の状況は軍事クーデターが勃発しても正当化できるすべての条件があったという点を見落としてはならない。
 当時の米国のケネディ政権は、速やかに朴正熙の革命勢力を支持しはじめた。革命勢力が打ち出した不正腐敗の剔抉への意志、経済発展のためのビジョン、国家発展を推進する過程で見せた能力などを肯定的に評価した結果だ。ケネディは1961年11月、朴正熙を招待したが、これは朴正熙軍事政権の正当性を認めるものになった。朴正熙はこれを自分の政権を安定化させ、立場を強化する契機として活用した。
 朴正熙のクーデターは特に米国防総省の強力な支持を受けた。国家安保を何よりも重視する米国防総省が、韓国に強い反共政府が出現するのを支持したのは自然なことでもあった。米国務省は、国防総省が朴正熙のクーデターを支持することに不満だった。確かに能力の有無や、彼の意図と方法が適切なのかについては十分疑問を提起することができた。


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