在日の英雄 義士 元心昌15

韓国人の独立意志を覚醒させるも…
日付: 2016年04月20日 10時35分

天下に明らかにされた日中の野合

 「3月17日に日本駐華公使有吉を暗殺しようと試みた元勳(もしくは元心昌、28歳)・白勳波(白貞基、37歳)・李康勳(31歳)の3人が上海武昌路 松江春飯店で日警に逮捕された」(1933年3月19日、中国「天津大公報」)
六三亭義挙を報じた朝鮮中央日報
「有吉明日本公使を狙ったテロに使用された爆弾を持っていた韓国人3人が昨日逮捕された」(1933年3月18日、「印度太平洋通信社」)
「朝鮮○○党が有吉公使暗殺を計画していることを上海総領事館の警察が検出し、17日午後、彼ら武昌路松江春に集まって密議するのを特高と武装警官十數人、その家を包囲して朱元勳(元勲の誤字)、李康勲、白勳波の3人を逮捕して暗殺爆弾2個拳銃3丁を押収した」(1933年3月21日、韓国「東亞日報」) 
「主犯は京畿生まれの朱元勳(28)と判明し、背後に某国際団体」(1933年3月21日、韓国「朝鮮中央日報」)
3・17六三亭義挙を報道した韓国、中国などの メディアの記録である。その中でも、中国の上海、北京、南京、天津の新聞は、韓国人による暗殺計画と、それを実行した理由を詳細に報道した。これにより、日本政府が有吉を介して、中国の蒋介石政府を買収しようとする計画が世の中に暴露され、これに反対する中国人のデモは激化していった。事前に韓国人アナーキスト同志たちは義挙直後、報道機関に送る報道資料と宣言文を作成していた。 宣言文の作成者は柳子明氏だと知らされていて、この時、実行主体を「B・T・P(BLACK TERRORIST PARTYの略称)」と命名した。B・T・Pの存在が初めて世の中に広く知られた瞬間だ。
六三亭義挙は、不発に終わってしまったが、韓国人の独立への強烈な意志を天下に知らしめると同時に、日本帝国主義の大陸進出の野心を改めて覚醒させるきっかけとなった。特に付与することができる意義は、日本による植民地支配の20年が過ぎた時点で、韓民族自らが民族意識を目覚めさせた義挙であったという事実である。
当時、日本当局の報告書によると、満州事変以前の在中韓国人は3000人余りに過ぎなかったが、1930年代初頭には、25万人を上回っていた。日本は在中韓国人の特徴を「低学歴」、「低文化的教養」、「低民族意識」と罵倒しながら、日本がいつでも使うことができる下手人とみなしていた。
長年にわたり植民地生活を体験した韓国人の中には、自らを日本の二等国民とし、自己卑下が身についた人が多かった。
いくら国を失い故郷を離れた身であっても、祖国を取り戻すという独立の意志、自身が韓国人というルーツを忘れてはいけない。六三亭義挙は植民支配に慣れてしまった韓国人へ覚醒のメッセージを投げかけたのだ。
一方、義挙現場から領事警察署に強制連行された三義士たちは領事警察による過酷な取り調べに耐えなければならなかった。従犯の李康勲氏は自叙伝で、取り調べは3日間にわたったと述べている。しかし主犯である元心昌氏(第1被疑者)、白貞基氏(第2被疑者)に対する取り調べは一週間以上継続された。駐上海日本総領事は義挙から10日後となる3月27日付で東京の外務大臣に事件報告書を作成した。元心昌氏は取り調べで受けた拷問の後遺症により、その後生涯に渡って右手を正常に使うことができなくなった。
その後三義士は、4月14日に、治安維持法や爆発物取締法違反、殺人予備、器物損壊などの疑いで、上海総領事館管轄の検事に送致されており、4月17日に予審にかけられ、7月5日に終結した。
しかし日本は、抗日アナーキスト同志たちによる報復を恐れて、裁判所を上海ではなく、日本に移した。
これに伴い、六三亭義挙の裁判は長崎地方裁判所に回付された。7月10日、元心昌氏ら三義士は日警4人とともに上海で長崎丸二等船室に乗船し、翌日夕方頃長崎港に到着した。そして11月24日の公判宣告日まで長崎刑務所浦上拘置支所の独房にそれぞれ収監された。      (つづく)


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