南北協商が終わり4月28日と29日、金九・金奎植・金日成・金〓奉の「4金会談」が行われ、4月30日には南北指導者会議が開かれた。この会議で採択された「南北朝鮮の諸政党・社会団体の共同声明」は、外国軍隊を直ちに同時撤収させ、外国軍隊の撤収後に内戦発生はないことを確認。軍の撤収後に諸政党の共同名義で全朝鮮の政治会議を招集し、各界各層の人民を代表する民主主義臨時政府を樹立し、南朝鮮単独選挙に反対するといった内容だった。だがこの声明は、紙切れにすぎなかった。
北韓はすでに1947年11月8日、憲法制定委員会を構成して「朝鮮臨時憲法」の作成に着手し、48年2月初めに憲法案はできていた。この憲法案は、「わが国は朝鮮民主主義人民共和国である」と国号まで明記していた。「国号」はスターリンがロシア語で書いたものの翻訳だ。金九一行が南北協商のため平壌に滞在中、スターリンは北韓憲法案を承認し、北朝鮮人民会議は10日後、この憲法案を承認した。
レベデフの備忘録によると、ソ連は米国の政策を攻撃するため当分の間、北韓での憲法施行を保留し、新憲法による選挙も南韓より後で実施するとの方針だった。シュチコフとレベデフはソ連共産党政治局の決定に従い、南北協商会議のすべてを細かく指示し、彼らの政治宣伝に金九と金奎植を徹底的に利用した。もし金九と金奎植がいうことを聞かないときの対策は次のようになっていた。
「金九とその側近たちが会議を破綻させて退場すればどうするか。『出て行け』と言い、彼らを米国のスパイと罵倒しよう。だが、会議は続ける。金九と対話を続ける。(中略)彼らが騒げば、『この大会は総選挙に反対するものなのに、なぜ退場するか』と追い詰めること」
金九は平壌を離れる前、金日成に「平壌にいる曺晩植先生と一緒に帰りたい。一緒に行けるようにしてほしい」と要求した。金日成は「私に何の実権がありますか」と答えた。金日成は自ら、自分がソ連軍政の傀儡であることを告白したのだ。
金九と金奎植は、金日成とソ連に利用されて5月5日、ソウルに戻った。翌日、2人は共同で南北協商に関する声明を発表した。
「わが疆土から外国軍隊は即時撤収。南北政党社会団体の指導者たちは、わが疆土から外国軍隊が撤退した後、内戦が発生しないことを確認する。北朝鮮当局者は鴨緑江水力発電所の電力送電を中断せず、北の水利組合貯水池は南韓の水田に水を供給するため水門を開けると約束した。曺晩植先生と同行して南行するという私たちの要求に、北朝鮮当局者は、今回は実行できないが、遠からずそうなれるよう努力すると約束した」
しかし、5・10選挙直後の5月14日、北側は送電を中断し、貯水池の水門は開けなかった。それでも金奎植は国連韓国委員会に「金日成が私に北からの南侵はないと約束した。これは疑う理由がない」と話した。この約束もウソだったことは2年後に証明される。
レベデフは南北協商が成功したと報告した。南の右翼人士、金九と金奎植が平壌に来て単独選挙に反対したためだ。金九と金奎植も満足したかもしれない。分断阻止のため努力したと示せたからだ。
だが、両者の南北協商参加は大韓民国建国史に深い傷を残した。彼らが制憲国会選挙に参加しないことで、大韓民国の政治体制に瑕疵があるような印象を与え、右翼勢力は分裂し、南韓の政治雰囲気は硬直したからだ。(つづく)